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評者:国際歴史論戦研究所顧問 阿羅健一

原著:Peter Harmsen, Bernhard Sindberg The Schindler of Nanjing(Casemate Publishers 2024)
  (ピーター・ハームセン『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』)

解題

この本はデンマーク人バーナード・シンドバーグの伝記で、バーナード・シンドバーグは支那事変が起きたとき上海におり、戦線が南京へ広がり、デンマークの会社が南京郊外に建設中のセメント工場に被害がおよぶ恐れが出たため、12月初旬に工場へ派遣され、翌年3月までその管理にあたった。

本の扉に記述されている要約によると、南京城内で大虐殺が行われていたときシンドバーグは工場の近くにいた1万人の避難民を受けいれ日本軍の迫害から守り、ホロコーストからユダヤ人を守ったシンドラーに匹敵するアジアでの人物であるという。

シンドバーグは無名に近い人物で、当時26歳の青年、格別のこともなく、伝記といってもほとんどが支那事変初期の出来事に割かれている。のちにアメリカへ帰化、太平洋戦争に従軍し、1983年にロスアンジェルスで死んでいる。

著者のピーター・ハームセンは、国立台湾大学で歴史を学び、中国語に堪能、東アジアで通信社の特派員として20年以上働いた。この間、ベストセラーとなった「上海、1937年」など支那事変初期に関する3部作を著している。その流れでこの本も書かれ、イギリスとアメリカにあるにあるケースメイト出版社から2024年に刊行されている。

評者の阿羅健一は1944年、宮城県生。東北大学卒業。現在「南京事件」問題では最高峰の研究者。少なくとも最高峰の1人としての研究者。それゆえに、この書評には重みがある。高校時代に伊藤正徳の『大海軍を想う』(文芸春秋新社 1956年)を読み、日本が軍隊を持たないことの悲哀を覚ったという。そして昭和史、戦後史を研究するようになるが、その過程で警察予備隊創設に際し、旧軍人を排した吉田茂に批判を抱くようになる。軍事史に関する著書として『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館 2002年)、『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』(徳間書店 2007年)、『日中戦争はドイツが仕組んだ-上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』(小学館 2008年)、『秘録・日本国防軍クーデタ―計画』(講談社 2013年)などがある。

書評

棲霞山寺近辺で起こったこと

バーナード・シンドバーグという名は南京事件を研究している人には知られていた。

東京裁判に提出された「南京安全区档案 第六十号 棲霞山寺よりの覚書」のなかに、棲霞山寺は南京陥落前後から2万400人もの避難婦女子を抱え、1月4日から日本兵がやってきて24件以上の強姦が起き、殺人は3件、略奪も多数起き、1月20日ころも女を求めてくる日本兵がいたが、日本軍が交代して好転した、と記述されていた。この覚書を国際安全区委員会に提供したのがバーナード・シンドバーグである。

「南京安全区档案 第六十号」は法廷で読みあげられなかったものの、マギー牧師が証言台に立ったとき、昭和13(1938)年2月に棲霞山のセメント工場へ行くと、村長格から、工場には1万人の避難民がおり、日本兵がやってきて女を出すよう要求し、聞かないと暴行をしたと聞いたと証言し、そのほかデンマーク人から、ひとりの男が城内へ向かったところ城内で殺されていたと聞いた、と証言している。

 1990年代の時代に入ると、マギー牧師が棲霞山を視察したさいの記録が明らかになった。それによると、2月ころ棲霞山寺の避難民は1千人まで減ったが、代わりにセメント工場の避難民が1万人に増え、それらをシンドバーグが管理し、シンドバーグや村のひとが語るところによると、一帯ではそれまで700から800人の民間人が殺され、強姦は数えきれず、いまでも女性の要求は続き、殺人も起きているというものであった。

「南京安全区档案」と日本軍の動き

 こういったことに対してまずあげられたことは、「南京安全区档案」が南京にいた宣教師の宣伝工作による文書あり、事実を記述しているといえないということである。また、日本軍の行動を見ると、マギーの証言と棲霞山視察記録は事実に反しているということである。

南京は12月13日に陥落し、南京まで進んだ部隊は20日に新たな配置を命ぜられる。第16師団が南京を警備し、ほかの師団は蘇州や蕪湖などで警備につくと決まり、24日ころから移動が始まる。第16師団は主力が南京城に配置され、一部が抹陵関、堯化門、湯水鎮、棲霞山、新塘、丹陽など南京郊外に配置された。

棲霞山は、南京城の東北25キロにあり、南京城を朝に出発するなら夕方までには着く。南京と上海を結ぶ鉄道に棲霞山駅があり、そのまわりに棲霞山寺や大きいセメント工場がある。

第16師団の配置された郊外は、当初、南京防衛のため中国軍が配置され、やがて南京を目指した日本軍が進出し、空爆も行われ、中国軍は敗走する。日本軍はそれらを通って南京城へ向かい、一帯は後方地域となる。

第16師団は昭和12(1937)年9月から北支で戦い、中支に転戦し、南京まで攻め、南京で警備についた。郊外への配置では、本来なら警備と訓練であるが、将校たちが戦闘詳報と陣中日記の作成に追われたものの、兵たちはのんびりと休養を送ることになった。

食糧は南京陥落まで十分でなかったが、陥落後に輜重部隊が追及、12月下旬になると揚子江を通しても届きはじめる。正月を迎えることもあって、餅米、数の子、勝ち栗、鯛の缶詰などが届けられ、餅つきもいたるところで行われた。徴発のつづく部隊もあったが、12月28日には上海と南京間の鉄道が復旧し、おおむね平穏であった。

セメント工場に配置されたのは奈良の歩兵第38連隊第1大隊の第1中隊と第1機関銃隊で、その伍長である岡崎茂に対し東中野修道氏がインタビューした記録がある(東中野修道『南京『事件』研究の最前線 平成十七・十八年合併版』(展転社 2005年))。岡崎茂は軽機分隊の分隊長で、小隊の指揮をとったこともあるのだろう、兵隊の行動をよく把握しており、セメント工場での兵隊の生活もよくわかる。

それによれば、セメント工場のまわりに民家はない。工場は鉄条網が張りめぐらされ、自由に出入りできない。食糧は十分届いており、兵士の任務は兵器の手入れくらいで、兵隊は暇を持てあまし、トランプを使った賭け事が流行り、敗けこんだ兵隊が脱走する事件が起きた。それ以外、特段の乱れは起きていない。数キロ離れた棲霞山寺には第1大隊のほかの部隊が駐留していたのであろう。

第16師団は配置についたものの、早くも1月8日に転用が決まる。兵隊は南京を離れることを知らされるが、それ以上のことは皆目わからず、凱旋するものと考える兵も多かった。13日には指示が出て、準備が始まる。末端まで指示が届くのは数日かかるが、17日には師団司令部で送別会が行われる。日本軍が棲霞山にいたのはおよそ20日間で、最後の1週間は出発準備に追われたであろう。

出発にさいしては、南京から乗船して上海を目指す部隊と、鉄道を使って上海へ向かう部隊とに分かれる。湯水鎮で警備していた部隊は上海寄りの鎮江まで行軍し、そこから列車で上海へ向かった。棲霞山の部隊もそうであったろう。おおむね20日から28日にかけ南京を出発している。第16師団は上海からふたたび北支へ向かった。

このような日本軍の行動から、棲霞山寺では1月20日以降も女性を出せと日本兵が言ってきて、セメント工場では2月も続いているというが、そのころ第16師団はここにはいない。

本書の記述の問題

本書『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』によれば、棲霞山では多くの避難民が出て、避難民は棲霞山寺に避難し、急ごしらえの藁と竹からなる建物で生活し、雪や寒さをそこでしのいだ。やがて棲霞寺への避難民はセメント工場へ移る。

1月11日、シンドバーグは手紙に、工場は安全で従業員と家族100人がおり、工場のまわりに3千から4千人の難民がいるが、食糧も2月中旬までは持つ、と書いている。

1月23日にはアヒル20羽を城内の国際安全区委員へ持っていき、食糧は城内より豊富であった。シンドバーグは南京国際安全区委員会と関係なかったが、セメント工場から車に乗れば1時間半ほどで南京に着くことができ、工場と城内をたびたび行き来している。12月20日に初めて国際安全区委員会を訪れ、委員長のラーベのほか委員のスマイスやマギー牧師にも会っている。

また、日本兵が棲霞寺に入ることはなかった。セメント工場は貼紙がされ、日本兵が工場に来て女性を求めるが、デンマークの旗を出すと日本兵は去っていった。

このようなことが記述されており、シンドバーグは市民殺戮を目撃したわけでなく、東京裁判に提出された証拠からもほど遠い。

日本軍の仕業としてあげられていた事件は、もともとなかったものか、中国の敗残兵や不法者の仕業のものであろう。城内での出来事を多数記録した安全区档案が架空の出来事を記録しているように「南京安全区档案 第六十号」やマギー牧師の視察記も同じであろう。

ピーター・ハームセンは何を書こうとしたのだろうか

ピーター・ハームセンは何を書こうとしたのだろう。

日本の残虐性、不法行為を書こうとしたのか。

しかし、日本軍がそこにいたかどうか日本軍の資料と照らし合わせるまで考えが至らず、東京裁判や宣教師の記録を引きうつし、工場での被害をすべて日本軍によるものとするだけである。

戦場の悲惨さを書こうとしたのか。

一帯に避難民が出たのは両軍の軍事行動によるもので、ここでもピーター・ハームセンはそれらをすべて日本軍によるものとし、中国軍に目がいっていない。シンドバーグは避難民の救助にあたったが、救助にあたったというのなら、日本軍からではなく、中国の敗残兵と不法な中国人からであろう。

シンドバーグの勇敢さを書こうとしたのか。

シンドバーグは23歳のとき中国へ向かうが、船上で甲板長を殴り、別の乗組員をナイフで刺そうとし監禁される。3年後、セメント工場の管理を任せられるが、工場へ向かうさい日本軍の命令に従うように注意され、工場ではまわりの者をピストルで脅すなどして昭和13(1938)年3月には管理の役を辞めさせられている。勇敢というより乱暴者であった。

なぜシンドラーになぞらえられたのか

副題に「南京のシンドラー」とつけられている。

シンドラーはドイツの軍需工場経営者で、ユダヤ人従業員を雇っていた。ユダヤ人に同情し、収容所将校と親しい関係にあり、ノルマをあげる名目で収容所に入れられた1千200人のユダヤ人を救った。

「バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー」は、数百万の死をもたらしたドイツ国旗が南京では生命を助けるため使われていると記述しており、南京での避難民救助をドイツのユダヤ救出になぞらえているのだろう。

ヨーロッパには反ユダヤの歴史があり、第二次大戦中、ドイツはユダヤ迫害を行った。ヨーロッパに反ユダヤ主義があったとすれば、当時、東アジアには大アジア主義があった。日中が提携して欧米に対処するというもので、支那事変が起きて日中は戦ったが、日本は漢民族を抹殺しようとしたわけでなく、といって欧米を迫害したわけでもない。

シンドラーは成績証明書を改竄するような人物で、チェコでスパイ活動をし、闇商売で工場を大きくした。そのような人間性と通じるところからシンドバーグをシンドラーになぞらえているとしか思えない。

シンドラーになぞられた人は以前にもいた。平成8(1996)年、ドイツ人ラーベの日記が公開されたとき、ラーベは南京市民を救ったとしてシンドラーになぞらえられた。

ラーベは南京で貿易に従事し、南京陥落後、市民救済に動いた。しかし、南京で市民殺害が起きたわけでなく、ラーベが市民を殺害から救ったわけでもない。ラーベの行動は日本に敵対し、南京の復興を遅らせただけである。シンドラーになぞられる話ではなかった。

 結論

 それでは、なぜ、いま、このような本が刊行されるのか。

本書『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』は、これを根拠づける史料や資料という観点から見ても、何ら新しいものはなく、報復のため行われた戦争裁判の資料を並べただけで、新たな証拠に基づく研究が加えられたわけでない。敢ていうならば、歴史を正し、事実を広めるという姿勢が日本に見られないため、日本に関しては何を書いても許されるという風潮が世界に流れ、このような本が出版されたというよりほかはない。

評者 タダシ・ハマ

原著 著者 ハリー・レイ(原著)、杉原誠四郎(著者)日本人の原爆投下論はこのままでよいのか ―原爆投下をめぐる日米の初めての対話

解題

この書評の書『日本人の原爆投下論はこのままでよいのか-原爆投下をめぐる日米の初めての対話』(日新報道 2015年)は、アメリカ人ハリー・レイが日本人が一般に抱いている原爆投下論を批判したのに対して、日本人杉原誠四郎が、ハリー・レイの論考の章ごとに日本側に立って、章ごとに、反論を主として日本側の立場からのコメントを付したもので、それを原爆投下をめぐる日米の初めての対話として出版したものである。日本語版はハリー・レイの英文部分を、明星大学で博士号を取得し、同大学戦後教育史研究センターで占領下の教職追放の研究をした山本礼子が担当し、2015年、日新報道より出版された。英語版は、Bridging the Atomic Divide: Debating Japan-US Attitudes on Hiroshima and Nagsaki と題して、杉原の和文部分を、中国系オーストラリア人のノーマン・フーが担当して訳し、2019年、Lexington Books より出版された。

 共著者の1人、ハリー・レイは1931年、アメリカのネブラスカ州で生まれ、本書の英語版は見ずして2017年に没した。1971年ハワイ大学大学院を修了し、日本に長く滞在し日本の幾つもの大学で教鞭を執った。占領期教育改革の研究では占領下の教育改革に携わった日本側の50人、占領軍側の28人のインタビュー行い、占領教育史の研究で多大な貢献をなした親日家である。

 他方の著者杉原誠四郎は1941年広島市の生で、原爆投下寸前まで爆心地の近くに居住していた。1967年東京大学大学院教育学研究科修士課程を修了。博士課程に進まなかったのは、戦後の日本で自虐史観を振りまくことで多大な役割を果たした日本教職員組合(日教組)の講師団の団長を務めていた主任教授と対立したからといわれている。

 この書評の評であるタダシ・ハマは、この書評を2019年9月、「史実を世界に発信する会」より次のようにして発表した。

<書評>
『日本人の原爆投下論はこのままでよいのか
-原爆投下をめぐる日米の初めての対話』
ハリー・レイ & 杉原誠四郎
(レキシントンブックス 2019)

 ニュースレター No.231で、日本とアメリカとのあいだで長いあいだ避けられてきた極めて敏感な問題につき、率直にして忌憚のない対話をしたとして、この新しい本を紹介している。

 書評はタダシ・ハマによって書かれたもので、この書評に対しては、この本の著者の1人である杉原誠四郎教授によってさらにコメントが寄せられている。

 著者のハリー・レイはバランスの取れた対話となるように原爆について対話していきたいと述べており、そして占領期になされた東京裁判のような、戦勝国が敗戦国になす一方的なものであってはならない、と述べている。が、しかし、冒頭から、日本に向けて「人道に対する言い訳のできない罪を犯し続けた」と誹謗し、そしていろいろ述べるなかで、あたかも確定した歴史的事実であるかのように、韓国人女性を強制的に売春婦にしたとか、あるいはいわゆる「慰安婦」にしたとか、そして「南京事件」があったとか述べている。

 ハマの批判は、要するにこのような考え方でもっては「バランスの取れた会話」など成り立つはずはないということである。ハマはレイの偏った一方的な考え方について詳細に指摘していく。

 このハマの指摘に対して、著者の杉原は、ハマの見解を肯定しながらも、大統領ルーズベルトが原爆投下の最終的責任を背負うべきだと強調する。そしてこの杉原の指摘こそが、この重要な問題についての2人の対話を成り立たせることになっているのだ。杉原の指摘するところもよく読まれるべきだといえる。

 評者のハマは、チャールズ・A・リンドバーグの『孤高の鷲-リンドバーグ第二次大戦参戦』(Harcourt Brace Jovanovich, 1970)、グッドリッチ・TのSummer, 1945 (The Palm Press, 2018)などを新たに文献に加えて、日米戦にあって、アメリカ側にいかに多くの残虐行為があったかを示した。そのことによって、原爆投下につき、アメリカ側のハリー・レイの主張を否定し、アメリカ側に原爆投下の大義はなかったことを強調している。

 評者のハマは史実に即して言っているわけだから、ハマの言うことには誇張や虚構はない。その意味でこの書評は多くのアメリカ人に読んでもらうべきものだ。

 ハリー・レイの主張はアメリカで一般に広く言われているもので、原爆投下は終戦を早め、日米の犠牲者を少なくするためのものであり、事実、原爆投下によって多くの犠牲者が救われた、というものである。そしてポツダム宣言が出たとき、日本側が受諾しておれば原爆投下はなかったわけだから、原爆投下には日本側にそれ相当の責任があるというものである。

 後に言われることになる、原爆投下によって助かった犠牲者の数には誇張が入っているとしても、多くの人が助かったことは事実であり、そしてまたポツダム宣言が出たとき日本が直ちに受諾しておれば原爆投下はなかったことも事実である。

 が、これに対して、日本側を代表して杉原はどのように反論するか。要点としてはアメリカ側には、ポツダム宣言を出す以前の日本を降伏させ原爆投下をする必要をなくする機会は、ポツダム宣言を日本側が受諾する機会より遥かに何倍かの大きさであった、というものである。

 原爆投下以前に日本を降伏させるというこの政策を採ることを、時の大統領トルーマンのもとで難しくしたのは、前大統領ルーズベルトが日本に対して無条件降伏を強いていたからである。ルーズベルトは日米開戦に当たって、日本は「宣戦布告」なく突如、真珠湾を攻撃したと非難し、国民の戦意を煽り、日本への憎悪を掻き立てた。実際には、日米戦争は国民の見えないところでアメリカが日本を挑発して起こした戦争であり、「宣戦布告」の手交遅延も意図的にしたものではなく事務失態によるものであり、そのことを事実上知りながら、ルーズベルトは日本への敵意を煽り、無条件降伏を日本に強いた。そしてそれをして国民に強く支持させていたのである。その結果、日米戦争は日本に対して本土上陸作戦を実行しなければならないものになり、そのために日米戦争の勝敗がはっきりして以降も戦争を続けなければならなくなり、無駄な犠牲者が日米双方強いられていたのだ。

かくして、共著者の杉原は、ルーズベルトはアメリカ国民にも不必要に途方もなく犠牲者を強いたのであり、その限りでルーズベルトはアメリカ国民をも裏切っていたのだ。そのことをアメリカ人は知ってほしいと、杉原は追加して主張している。

この書評は、原爆投下をめぐり、アメリカ人にも広く読んでほしい書評である。

書評原文(史実を世界に発信する会Webサイトへのリンク)

著者:金柄憲

日本語版出版:文藝春秋社 (Amazonリンク

解題
 評者矢野は国際歴史論戦研究所上席研究員であり、陸上自衛隊陸将補を務めた後、岐阜女子大学、日本経済大学等で客員教授として教鞭を執る。専門分野である安全保障の観点から世界の国際紛争や日本国内に存在する歴史戦に対して日本の立場から数多くの提言を残すと共に、一般財団法人日本安全保障フォーラム会長を務めている。

 本書評は、『赤い水曜日』発行直後に日本国内での販売を後押しするためにAmazonのレビューとして記されたものである。

金柄憲氏は研究者として、また活動家として旧挺体協、現在の正義連が吹聴している「嘘」を暴き、言論と活動の現場で発信していることに対する孤軍奮闘のたたかいが多くの韓国の人々の共感を呼び、大きなムーブメントとなっていった。時に「慰安婦」強制連行を非難する集会では正義連を圧倒することもある。また、金柄憲氏は名古屋で行われた「表現の不自由展」や、フィラデルフィアの慰安婦像設置に併せて現地で韓国人の立場から韓国外でも反対運動を繰り広げた。

 金柄憲氏の主張と行動について、評者は日本人が真実の歴史に触れるばかりにとどまらず、韓国でなされている嘘の教育や対北政策に対する韓国国内における売国的行為に対するカウンターであるとした。

 また、評者はこれらが解決されることによって、日本と韓国の間に真の友好が芽生え、未来志向の発展と共に、共産主義勢力に対して自由主義陣営が勝ち抜くことの重要性を著した一冊であると評している。

日本語で出版されることによって保守的日本人の溜飲を下げるのみにとどめず、日本、韓国そして世界中の良識ある研究者や有識者が一致団結するきっかけとして、金所長が表明する憂慮に応えるためにも、さらに多くの言語での出版が望まれるところである。

当記事では、国際歴史論戦研究所 矢野義昭上席研究員によって書かれた書評を紹介します。

著者:金柄憲(国史教科書研究所)

和訳:宮本富士子
英訳:史実を世界に発信する会

解題

本論文の筆者である金柄憲(Kim byungheon)氏は、成均館大学(Sungkyunkwan University)漢文学科博士課程を修了した韓国史の専門家であり、現在は国史教科書研究所の所長として、韓国教科書の問題に取り組んでいる。

彼は元慰安婦と称する人々とその支持団体が主張する「日本政府による朝鮮人女性強制連行説」があまりにも事実を歪曲していることに義憤を覚え、2019年12月に在韓国日本大使館前で、元慰安婦をめぐるさまざまな「嘘」を告発する記者会見を行った。

以来、正義連(The Korean Council for Justice and Remembrance)(旧挺身隊問題対策協議会(The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery))が日本大使館敷地前で開く「慰安婦を称える水曜デモ」に対抗して、同じ場所で「反慰安婦団体デモ」を敢行し、慰安婦問題の虚構を訴え続けている。その活動範囲は韓国内に止まらず、昨年6月末には仲間と共にドイツのベルリンまで飛び、区内に慰安婦像設置を許可したミッテ区議会に抗議し、設置された慰安婦像の前で集会を開いて「慰安婦問題の嘘」をベルリン市民に訴えた。

さらに当国際歴史論戦研究所(iRICH)をはじめ、日本側の「慰安婦問題」の真実を追求する団体との協力も進んでおり、昨年8月に名古屋で開催された「表現の不自由展・その後」に対しては「なでしこアクション」と共に名古屋に駆けつけ断固とした抗議を行った。

また、同年11月にはIrichが東京で主催した、慰安婦問題の嘘を糺すための「日韓共同シンポジウム」に参加、韓国教科書に書かれた「嘘」を糾弾した。

同シンポジウムは本年9月にソウルで第二回目が開かれ、元延世大学(Yonsei University)教授の池錫春(Ji Seokchoon)氏や落星台経済研究所 (Naksungdae Institute of Economic Research)の李宇衍(Lee Wooyeon)氏らと共に韓国側代表として登壇し、慰安婦を巡る韓国小中学校の教科書の歪曲・捏造の実態を具体的に示し、これらを徹底的に批判している。

本論文は金柄憲氏が自己の主張するところを簡潔にまとめたものである。慰安婦問題の重要ポイントが網羅されており、元慰安婦や左翼市民団体の主張が、極めて論理的かつ緻密な分析によって完全に論破されている。 なお、本論考の英文、和文は「史実を世界に発信する会」からすでに公表されているので、ここではリンクを張っていることをご了解頂きたい。

本文(史実を世界に発信する会Webサイトより) 日本語 英語

著者:Jason Morgan(麗澤大学准教授)

著者プロフィール:
ジェイソン・モーガン、麗澤大学国際学部准教授、ウィスコンシン大学大学院博士号獲得(2016年、日本史)、1977年にアメリカ合衆国ルイジアナ州生まれ、専攻は日本史、東洋思想史、法哲学などです。専攻に興味を持った理由は、体験したさまざまな文化圏の歴史意識、法意識などが異なっていて、それぞれ比較する過程で歴史の影響、思想史、法哲学などの影響に気付いたことがきっかけです。

出典:Substack, A Massacre in the Making: Separating Truth from Fiction about Nanking

和訳:一二三朋子(国際歴史論戦研究所 上席研究員)

解題

南京において30万人が虐殺されたというありえもしないデマは、これまであたかも真実のように語られ、信じられてきた。モーガン氏の論考“A Massacre in the Making: Separating Truth from Fiction about Nanking  Think through the evidence for yourself”は、一方的で偏った英語の情報により語られ信じられてきた南京事件について、日本人による日本語文献を数多く紹介しながら、南京事件(南京物語)の背景を丹念に論究している。中でも池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実―アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(2020 展転社)は、実は中国軍支援保護目的だった安全区・国際委員会を設立したアメリカ宣教師団こそが、南京事件の発信源であったことを究明した決定的な著作である。これまでの「南京事件」論争はついに決着を見たといえよう。池田の明らかにした南京事件の真実と同時に、アメリカの研究者が英語で紹介していることを、当の日本人はもっと知るべきであろう。

本文(PDF)