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評者:国際歴史論戦研究所顧問 阿羅健一

原著:Peter Harmsen, Bernhard Sindberg The Schindler of Nanjing(Casemate Publishers 2024)
  (ピーター・ハームセン『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』)

解題

この本はデンマーク人バーナード・シンドバーグの伝記で、バーナード・シンドバーグは支那事変が起きたとき上海におり、戦線が南京へ広がり、デンマークの会社が南京郊外に建設中のセメント工場に被害がおよぶ恐れが出たため、12月初旬に工場へ派遣され、翌年3月までその管理にあたった。

本の扉に記述されている要約によると、南京城内で大虐殺が行われていたときシンドバーグは工場の近くにいた1万人の避難民を受けいれ日本軍の迫害から守り、ホロコーストからユダヤ人を守ったシンドラーに匹敵するアジアでの人物であるという。

シンドバーグは無名に近い人物で、当時26歳の青年、格別のこともなく、伝記といってもほとんどが支那事変初期の出来事に割かれている。のちにアメリカへ帰化、太平洋戦争に従軍し、1983年にロスアンジェルスで死んでいる。

著者のピーター・ハームセンは、国立台湾大学で歴史を学び、中国語に堪能、東アジアで通信社の特派員として20年以上働いた。この間、ベストセラーとなった「上海、1937年」など支那事変初期に関する3部作を著している。その流れでこの本も書かれ、イギリスとアメリカにあるにあるケースメイト出版社から2024年に刊行されている。

評者の阿羅健一は1944年、宮城県生。東北大学卒業。現在「南京事件」問題では最高峰の研究者。少なくとも最高峰の1人としての研究者。それゆえに、この書評には重みがある。高校時代に伊藤正徳の『大海軍を想う』(文芸春秋新社 1956年)を読み、日本が軍隊を持たないことの悲哀を覚ったという。そして昭和史、戦後史を研究するようになるが、その過程で警察予備隊創設に際し、旧軍人を排した吉田茂に批判を抱くようになる。軍事史に関する著書として『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館 2002年)、『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』(徳間書店 2007年)、『日中戦争はドイツが仕組んだ-上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』(小学館 2008年)、『秘録・日本国防軍クーデタ―計画』(講談社 2013年)などがある。

書評

棲霞山寺近辺で起こったこと

バーナード・シンドバーグという名は南京事件を研究している人には知られていた。

東京裁判に提出された「南京安全区档案 第六十号 棲霞山寺よりの覚書」のなかに、棲霞山寺は南京陥落前後から2万400人もの避難婦女子を抱え、1月4日から日本兵がやってきて24件以上の強姦が起き、殺人は3件、略奪も多数起き、1月20日ころも女を求めてくる日本兵がいたが、日本軍が交代して好転した、と記述されていた。この覚書を国際安全区委員会に提供したのがバーナード・シンドバーグである。

「南京安全区档案 第六十号」は法廷で読みあげられなかったものの、マギー牧師が証言台に立ったとき、昭和13(1938)年2月に棲霞山のセメント工場へ行くと、村長格から、工場には1万人の避難民がおり、日本兵がやってきて女を出すよう要求し、聞かないと暴行をしたと聞いたと証言し、そのほかデンマーク人から、ひとりの男が城内へ向かったところ城内で殺されていたと聞いた、と証言している。

 1990年代の時代に入ると、マギー牧師が棲霞山を視察したさいの記録が明らかになった。それによると、2月ころ棲霞山寺の避難民は1千人まで減ったが、代わりにセメント工場の避難民が1万人に増え、それらをシンドバーグが管理し、シンドバーグや村のひとが語るところによると、一帯ではそれまで700から800人の民間人が殺され、強姦は数えきれず、いまでも女性の要求は続き、殺人も起きているというものであった。

「南京安全区档案」と日本軍の動き

 こういったことに対してまずあげられたことは、「南京安全区档案」が南京にいた宣教師の宣伝工作による文書あり、事実を記述しているといえないということである。また、日本軍の行動を見ると、マギーの証言と棲霞山視察記録は事実に反しているということである。

南京は12月13日に陥落し、南京まで進んだ部隊は20日に新たな配置を命ぜられる。第16師団が南京を警備し、ほかの師団は蘇州や蕪湖などで警備につくと決まり、24日ころから移動が始まる。第16師団は主力が南京城に配置され、一部が抹陵関、堯化門、湯水鎮、棲霞山、新塘、丹陽など南京郊外に配置された。

棲霞山は、南京城の東北25キロにあり、南京城を朝に出発するなら夕方までには着く。南京と上海を結ぶ鉄道に棲霞山駅があり、そのまわりに棲霞山寺や大きいセメント工場がある。

第16師団の配置された郊外は、当初、南京防衛のため中国軍が配置され、やがて南京を目指した日本軍が進出し、空爆も行われ、中国軍は敗走する。日本軍はそれらを通って南京城へ向かい、一帯は後方地域となる。

第16師団は昭和12(1937)年9月から北支で戦い、中支に転戦し、南京まで攻め、南京で警備についた。郊外への配置では、本来なら警備と訓練であるが、将校たちが戦闘詳報と陣中日記の作成に追われたものの、兵たちはのんびりと休養を送ることになった。

食糧は南京陥落まで十分でなかったが、陥落後に輜重部隊が追及、12月下旬になると揚子江を通しても届きはじめる。正月を迎えることもあって、餅米、数の子、勝ち栗、鯛の缶詰などが届けられ、餅つきもいたるところで行われた。徴発のつづく部隊もあったが、12月28日には上海と南京間の鉄道が復旧し、おおむね平穏であった。

セメント工場に配置されたのは奈良の歩兵第38連隊第1大隊の第1中隊と第1機関銃隊で、その伍長である岡崎茂に対し東中野修道氏がインタビューした記録がある(東中野修道『南京『事件』研究の最前線 平成十七・十八年合併版』(展転社 2005年))。岡崎茂は軽機分隊の分隊長で、小隊の指揮をとったこともあるのだろう、兵隊の行動をよく把握しており、セメント工場での兵隊の生活もよくわかる。

それによれば、セメント工場のまわりに民家はない。工場は鉄条網が張りめぐらされ、自由に出入りできない。食糧は十分届いており、兵士の任務は兵器の手入れくらいで、兵隊は暇を持てあまし、トランプを使った賭け事が流行り、敗けこんだ兵隊が脱走する事件が起きた。それ以外、特段の乱れは起きていない。数キロ離れた棲霞山寺には第1大隊のほかの部隊が駐留していたのであろう。

第16師団は配置についたものの、早くも1月8日に転用が決まる。兵隊は南京を離れることを知らされるが、それ以上のことは皆目わからず、凱旋するものと考える兵も多かった。13日には指示が出て、準備が始まる。末端まで指示が届くのは数日かかるが、17日には師団司令部で送別会が行われる。日本軍が棲霞山にいたのはおよそ20日間で、最後の1週間は出発準備に追われたであろう。

出発にさいしては、南京から乗船して上海を目指す部隊と、鉄道を使って上海へ向かう部隊とに分かれる。湯水鎮で警備していた部隊は上海寄りの鎮江まで行軍し、そこから列車で上海へ向かった。棲霞山の部隊もそうであったろう。おおむね20日から28日にかけ南京を出発している。第16師団は上海からふたたび北支へ向かった。

このような日本軍の行動から、棲霞山寺では1月20日以降も女性を出せと日本兵が言ってきて、セメント工場では2月も続いているというが、そのころ第16師団はここにはいない。

本書の記述の問題

本書『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』によれば、棲霞山では多くの避難民が出て、避難民は棲霞山寺に避難し、急ごしらえの藁と竹からなる建物で生活し、雪や寒さをそこでしのいだ。やがて棲霞寺への避難民はセメント工場へ移る。

1月11日、シンドバーグは手紙に、工場は安全で従業員と家族100人がおり、工場のまわりに3千から4千人の難民がいるが、食糧も2月中旬までは持つ、と書いている。

1月23日にはアヒル20羽を城内の国際安全区委員へ持っていき、食糧は城内より豊富であった。シンドバーグは南京国際安全区委員会と関係なかったが、セメント工場から車に乗れば1時間半ほどで南京に着くことができ、工場と城内をたびたび行き来している。12月20日に初めて国際安全区委員会を訪れ、委員長のラーベのほか委員のスマイスやマギー牧師にも会っている。

また、日本兵が棲霞寺に入ることはなかった。セメント工場は貼紙がされ、日本兵が工場に来て女性を求めるが、デンマークの旗を出すと日本兵は去っていった。

このようなことが記述されており、シンドバーグは市民殺戮を目撃したわけでなく、東京裁判に提出された証拠からもほど遠い。

日本軍の仕業としてあげられていた事件は、もともとなかったものか、中国の敗残兵や不法者の仕業のものであろう。城内での出来事を多数記録した安全区档案が架空の出来事を記録しているように「南京安全区档案 第六十号」やマギー牧師の視察記も同じであろう。

ピーター・ハームセンは何を書こうとしたのだろうか

ピーター・ハームセンは何を書こうとしたのだろう。

日本の残虐性、不法行為を書こうとしたのか。

しかし、日本軍がそこにいたかどうか日本軍の資料と照らし合わせるまで考えが至らず、東京裁判や宣教師の記録を引きうつし、工場での被害をすべて日本軍によるものとするだけである。

戦場の悲惨さを書こうとしたのか。

一帯に避難民が出たのは両軍の軍事行動によるもので、ここでもピーター・ハームセンはそれらをすべて日本軍によるものとし、中国軍に目がいっていない。シンドバーグは避難民の救助にあたったが、救助にあたったというのなら、日本軍からではなく、中国の敗残兵と不法な中国人からであろう。

シンドバーグの勇敢さを書こうとしたのか。

シンドバーグは23歳のとき中国へ向かうが、船上で甲板長を殴り、別の乗組員をナイフで刺そうとし監禁される。3年後、セメント工場の管理を任せられるが、工場へ向かうさい日本軍の命令に従うように注意され、工場ではまわりの者をピストルで脅すなどして昭和13(1938)年3月には管理の役を辞めさせられている。勇敢というより乱暴者であった。

なぜシンドラーになぞらえられたのか

副題に「南京のシンドラー」とつけられている。

シンドラーはドイツの軍需工場経営者で、ユダヤ人従業員を雇っていた。ユダヤ人に同情し、収容所将校と親しい関係にあり、ノルマをあげる名目で収容所に入れられた1千200人のユダヤ人を救った。

「バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー」は、数百万の死をもたらしたドイツ国旗が南京では生命を助けるため使われていると記述しており、南京での避難民救助をドイツのユダヤ救出になぞらえているのだろう。

ヨーロッパには反ユダヤの歴史があり、第二次大戦中、ドイツはユダヤ迫害を行った。ヨーロッパに反ユダヤ主義があったとすれば、当時、東アジアには大アジア主義があった。日中が提携して欧米に対処するというもので、支那事変が起きて日中は戦ったが、日本は漢民族を抹殺しようとしたわけでなく、といって欧米を迫害したわけでもない。

シンドラーは成績証明書を改竄するような人物で、チェコでスパイ活動をし、闇商売で工場を大きくした。そのような人間性と通じるところからシンドバーグをシンドラーになぞらえているとしか思えない。

シンドラーになぞられた人は以前にもいた。平成8(1996)年、ドイツ人ラーベの日記が公開されたとき、ラーベは南京市民を救ったとしてシンドラーになぞらえられた。

ラーベは南京で貿易に従事し、南京陥落後、市民救済に動いた。しかし、南京で市民殺害が起きたわけでなく、ラーベが市民を殺害から救ったわけでもない。ラーベの行動は日本に敵対し、南京の復興を遅らせただけである。シンドラーになぞられる話ではなかった。

 結論

 それでは、なぜ、いま、このような本が刊行されるのか。

本書『バーナード・シンドバーグ 南京のシンドラー』は、これを根拠づける史料や資料という観点から見ても、何ら新しいものはなく、報復のため行われた戦争裁判の資料を並べただけで、新たな証拠に基づく研究が加えられたわけでない。敢ていうならば、歴史を正し、事実を広めるという姿勢が日本に見られないため、日本に関しては何を書いても許されるという風潮が世界に流れ、このような本が出版されたというよりほかはない。