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ホーベイ(河北)省、チンホワンタオ(秦皇島)市立公文書館、上海師範学校の中国人「慰安婦」研究センター

*確証事項詳細:推薦文書は、原典であり、特定で更新不可。

 原典の価値。たとえば、日本関東軍の軍警察本部および満州中央銀行からの文書は、日本軍自身によって記録されたものである。また、これらの文書は日本占領地区で作成されたものである。したがって、これらは原資料としての価値がある。事例として日本軍の往復文書ファイルを検証すると、日本軍は極めて厳重な書簡検閲を行っていた。中国駐屯の日本軍とその家族の書簡は、軍警察検閲隊によって秘密裡に検閲されていた。戦闘についてあからさまな記述をした手紙や、軍の道徳的行為を乱すようなことを書いた手紙があれば、焼却されることになっていた。手紙が焼却される前に、軍将校は、記録を残すために手書きでこれらを複写していた。これらの手紙の複写は、日本軍によって記録された「慰安婦」と「慰安所」についての詳細を記していた。他にも次のような例がある。すなわち満州中央銀行による文書で、日本軍は4カ月間に「慰安所」を設立するために532,000円を支出したという記録である。その文書は、「慰安所」が関東軍司令部によって承認され事実を明白に記録し、日本と日本軍が直接支配し、計画的にこの「慰安婦」組織を実践していたことを明らかにしている。

 中華人民共和国の司法部は、1952年から1956年までに勾留した1000人以上の日本人戦争犯罪を調査した。彼らのうち8.5パーセントは、日本軍が「慰安所」の設置をしたことを認めていた。また、61パーセントは、書面あるいは口頭による自白により「慰安婦」と性的接触をしたことを認めていた。「慰安婦」の大多数は中国人であり、31パーセントは朝鮮半島出身の者とその他日本およびインドネシア出身であった。戦争犯罪者がまとめて解放され、1956年から日本に帰って後、ほとんどの者は、「慰安婦」強姦の罪を含め、告白を取り下げることをしなかった。多くの戦争犯罪人は中国からの抑留帰還者組織を結成し、強力に侵略戦争を非難し、平和的日中関係構築にかかわった。1945年8月日本が降伏した時、日本軍は意図的に日本の対中侵略戦争を詳述した資料を、組織だって、意図的に破棄した。その資料は、書式あるいは口頭による「慰安婦」の利用についての戦争犯罪人による告白であった。さらに重要なことはこれが原資料として重要なものであった。

 特殊性のある価値。第二次世界大戦における「慰安婦」問題の調査研究には、歴史の真実を客観的に残し記録するために、被害者と加害者両者についてのあらゆる種類の情報を必要としている。被害者は、「慰安婦」であったことよる激しい精神的、身体的トラウマに苦しみ、即時にあからさまな記録を残すことは極めて稀である。かくして、犠牲を詳述する加害者の文書は歴史の真実を残すためには特殊な価値がある。例えば吉林省古文書館には、日本軍がどのようにして「慰安婦」を徴用していたかについて25件の項目がある。これらの文書の主な内容には、1938年に南京およびその周辺の日本軍に「慰安婦」として割当られた数を示すつぎのような統計がある。すなわち、日本軍の10日間の「慰安婦」利用統計、「慰安婦」「買収」のため帝国日本軍が支出した公的資金の記録、「慰安婦」に対する日本軍の残虐行為の記録、「慰安所」における韓国人「慰安婦」の記録などが含まれている。事例として、日本の中国中部方面派遣軍の軍警察による資料を例に挙げてみる。これらの文書には、さらなる「慰安婦」の増加を要請する報告があり、1938年2月中旬の10日間に、その10日前の3,195人の利用よりも多い8,929人の兵士が鎮江省の「慰安所」を訪れていること、鎮江省の「慰安婦」は15,000人の兵士の相手をした。それは一人の女性が137人の日本兵を相手にしたことに相当することなどの事実を報告していた。日本軍によって記録された日本兵に対する「慰安婦」の比率をみると、「慰安婦」組織のもとで、女性がいかに酷く乱用されていたかを明確に知ることができる。

 上記のように今回推薦された資料の全ては、原資料であり、特定で、更新不可である。それは戦時中日本によって実行された「慰安婦」組織を人類の記憶として忠実に示すものである。

       ―中略―

 指定された文書は、日本軍が「慰安婦」を強権によって徴用し、「慰安所」を設立した事実を物語っている。

―中略―

(P。6より)

 推薦された実証的遺産は主に次の事実を含む。

 中国北部に駐屯していた日本の関東軍軍警察の記録は、ほとんどが破棄され、日本の敗戦と同時に焼却された。それらのうち後で発見され残された記録は、100,000点に上り、次のようなものである。すなわち、日本占領地域における「慰安所」施設についての資料、「慰安所」を訪れた日本兵士の数を示す統計、日本兵士と「慰安婦」の割合を示す統計、そして中国および今日のインドネシアのジャヴァ地域にあった「慰安所」で日本人兵士が犯した犯罪に関する審問記録である。これらの記録文書は、北東部中国、南京とその周辺地域に設置された日本の「慰安婦所」、「慰安婦」の数と構成、一人の「慰安婦」が性的行為を行った兵士の数、そして10日以内に「慰安所」を訪れた兵士の数などを示している。例えば1938年2月中旬の統計によると、ウーフー(蕪湖)には109人の「慰安婦」がおり、そのうち48人は日本人、36人が韓国人で25人が中国人であった。この場合一つの「慰安所」は、せいぜい267人、少なくとも71人の日本兵によって利用されることが可能であった。(吉林省資料館、1938年2月28日、中部中国派遣軍の軍警察司令官、オキ・シゲルによる「公式命令」[発表]についての文書、記録No.350)

 「慰安婦」の生活は劣悪で、頻繁に利用されていた。彼女達の多くは、性病に感染し、日本軍に病気を感染させた。“「慰安所」のための施設改善に関する報告”は、有害な性伝染病は、軍の慰安促進効果を減退させる、「慰安婦」に対して清浄器具が使われなければならないと規定していた。(河北省、秦皇島市資料館、記録集No.002)

 上海市警察資料には、親日の人々が日本軍のために働き、中国人女性を拉致し、「慰安婦」にするべく日本の「慰安所」に連れて行ったという上海市警察の審問と調査記録および上海地方裁判所の判決をしめしたものがある。(上海市資料館、記録集No.U1)

 中国の「慰安所」の設置に関する報告書、申請書、設置場所の地図のスケッチ、開所承認書、統計書などに関する日本に支援されている傀儡政権代行(市庁と市警察署)の資料がある。たとえば、1939年2月と1940年1月に、日本軍と上海にある警察は、親日の人々が上海のPudong 地域に「慰安所」を設置することを認可した。来場者は、帝国日本陸海軍人であったとしていた。(上海市資料館、記録集No. R.1)

 傀儡政権「満州国」によって設立された「満州中央銀行」の資料には、日本の侵略軍である第7990隊によって「慰安婦」設立のために割り当てられた軍の基金が計532,000円であるという記録がある。(吉林省資料館、満洲中央銀行鞍山支店長の電話記録、記録集、No.350)

韓国では、小学校から高校の歴史教育の中で、慰安婦問題を「日本軍慰安婦」として学習します。その内容は現在明らかになっている事実とはかけ離れたものとなっています。このページでは、小、中、高校の教科書を紹介します。

【韓国教科書の例・小学校社会科】

韓国の小学校社会科では、教科書で、水曜デモや慰安婦像を掲載し、「日本軍慰安婦とは、日本軍が侵略戦争を起こし他後、日本軍と日本政府が強制的に動員し、持続的に性暴力と人権侵害を加えた女性」と記述しています。

出典:国定教科書 『教育部編纂小学校5年生-2』 130ページ

【韓国教科書の例・中学校歴史】

中学校では7社(MIRAE N、リベル出版社、金星出版社、志学社、天才教育、東亜出版社、飛翔)の歴史教科書が発行されており、うち3社(リベル出版社、金星出版社、飛翔)に「慰安婦」の記述があります。ここでは、リベル出版社の記述を紹介します。

出典:リベル出版社 『中学校歴史』 159ページ

下線部日本語訳:

さらに、若い女性を前線に引きずり、日本軍「慰安婦」とする蛮行を犯した。

慰安婦像の説明:

日本軍慰安婦の姿を形象化した平和の少女像(ソウル鐘路)寂しくないように鮮やかな色の韓服を着せ、空いた椅子に子犬の人形を置いた。

【韓国教科書の例・高校韓国史】

高等学校では、9社(MIRAE N、シマス、ヘネムエデュー、リベル出版社、金星出版社、志学社、天才教育、東亜出版社、飛翔)の韓国史教科書が発行されており、全てに「慰安婦」の記述があります。ここでは、金星出版社でどのように記述されているかを紹介します。

出典:金星出版社 『高校韓国史』 222ページ

日本語訳:

解決されていない日帝強占期の傷

絵は1995年、故金スンドクおばあさんが描いた「連れて行かれる」だ。日本軍慰安婦のおばあさんたちが絵の治療を受けながら描いた絵の中のひとつだ。わけもわからないまま遠く離れた他国の地に連れていかれなければならなかった女性の恐怖が感じられる。政府は日本軍慰安婦のおばあさんたちが描いた絵を国家指定記念物として記録している。

出典:金星出版社 『高校韓国史』 224ページ

黄線部日本語訳:

女子挺身勤労令1944日本軍慰安婦は戦場に性奴隷として強制動員され、さまざまな侮辱と苦痛を受けた。

出典:金星出版社 『高校韓国史』 225ページ

資料1 最初に日本軍慰安婦問題を暴露した金学順おばあさん。

日本軍慰安婦被害者が光復46年ぶりに初めて日本帝国の残虐性を告発した。金学順おばあさんは1940年ごろ最前方だった中国中部の鉄壁陣に日本軍慰安婦として連れていかれて2~3カ月の間恥辱の生活を過ごした。彼女は「されたことを思い出すだけでも震えるのに、日本人は日本軍慰安婦自体がなかったと言い逃れをすることに呆れて証言するようになった。」と明らかにした。17~22歳の韓国人女性5名は布で仕切られた部屋で1日に3~4人を相手にし部隊から持ってくる食糧で延命し、服は軍服だったり中国人の服だったり何でも着たと金学順おばあさんは証言した。日本軍を避けて逃げたら追いかけられ泣きながら酷いことをされた。そのときの歳が17歳だったのです。

京郷新聞1991年8月15日

資料2 オランダ系オーストラリア人日本軍慰安婦被害者の告白

私は現在インドネシアと呼ばれる旧オランダ領東インドで生まれ育ちました。太平洋で戦争が始まり、1942年に日本軍がジャワ島に侵攻してからは美しかった時期は終わりました。1944年3月日本軍は17歳以上の若い女性たちに収容所の前に立っていろと命令しました。私たちは覆いのないトラックに強制的に乗せられ牛の群れのようでした。トラックがオランダの植民地の大きな建物の前で止まると、日本軍は「降りろ」と命令しました。私たちは日本式の花の名前の入っている各自の名前を与えられ、慰安所の門にその名前をピンで留められていました。私は背が低くて太った坊主頭の将校がサムライの刀で脅される中で苦しく辛い時間を過ごしました。

出典:金星出版社 『高校韓国史』 309ページ

主題74 東アジアの葛藤と協力

写真は日本軍慰安婦問題の解決のため毎週水曜日ごとに開かれる水曜日集会の模様です。集会に参加した人たちは、過去日本の侵略戦争中に起きたさまざまな蛮行について日本政府から真摯な謝罪を要求している。このように東アジアではいまだに解決されていない問題が残っている。

▶日本軍慰安婦おばあさんたちが日本の政府に望む真の謝罪とは何でしょうか?

出典:金星出版社 『高校韓国史』 311ページ

赤線部日本語訳:

日本に韓流の熱風が巻き起こっているなか、ワールドカップの共同開催もされ日本の国立美術館でもハングルをテーマにした展示会が開かれたにも関わらず、現在の状況が何故このようになったのか残念です。

朝鮮日報2015年6月9日

河野洋平前長官

もし戦争が起きたら私たちが経験したことがまた起きないとは絶対に言えないです。

ハンギョレ2019年1月29日

金福童おばあさん