書評 池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実-アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(展転社 2020年)
評者 杉原誠四郎(国際歴史論戦研究所会長)
著者池田悠は、本書で自らを歴史家ではないと宣しているが、かくのごとき歴史書の著者として十分に歴史家である。すでに完全に南京事件は存在しなかったことが明らかになっている現在でも、歴史家という看板を掲げながら、あったとする歴史家が今なお多くいるのを鑑みると、「歴史家」という看板は当てにならない。
つまりは、歴史の意研究は誰でもできるということだ。確かな資料や史料に基いて正しく推論して真実の過去を再現して意味を見出すことは、歴史家の看板を掲げなくても、誰でもできるということだ。
本書は、これまで南京事件の研究者の誰もが注目してこなかった、日本軍の南京攻略時に南京に在中していた宣教師に注目し、南京事件は在ったとする証言の全ての最初は、これらの宣教師の言動に行き着くことを明らかにし、彼らが国民党軍を支援する意図を持ち、また国民党政府も蒋介石を始め、宣教師の意図を知ったうえで彼らを利用し、特にアメリカで南京事件は在ったかのように宣伝し、日本ないし日本軍を不利に導くことを目論んだわけである。
そうした彼らの努力が実って、アメリカの新聞で南京事件は在ったこととして大々的に新聞で報じられ、記事となったのである。そして、そうした記事が根拠となって、占領下、いわゆる東京裁判で大々的に糾弾され、南京攻略の総指揮官の松井石根は死刑に処せられる。
が、全ては、宣教師の偽りの報告に源を発する嘘の情報によってもたらされたのである。
そして著者は言う。宣教師ないしキリスト教信者に関する無関心が、当時においても情報分析の過程で重大なる欠陥を引き起こし、他ならぬ南京事件に関わる研究においても重大なる欠陥を引き起こし、そのために真実の解明のために長く混乱を引き起こしたのだ、と。
キリスト教信者には、その信仰の下にそれなりに使命感があり、情熱があり、それがプロテスタント信仰を明確に宣した蔣介石及びその妻の宋美齢への親和の感情を引き起こし、歴史を大きく変えていくことになるのである。現時点で日米韓の3国の関係を考えるとき、日本国民は韓国のキリスト者の存在に無関心だが、国民の約30%をクリスチャンが占める韓国は、クリスチャンが約1%しかいない日本と違って、キリスト教国であるアメリカと特別な関係があると著者は指摘する。示唆に富む見解である。
なお、歴史研究の推論として、1カ所、不満に思うところがあったので、そこを指摘しておこう。
著者は「序」で以下のように述べている。
「南京事件に関しては、これまで様々な角度から研究されているにもかかわらず、戦後70年以上が経つ今なお、被害者数はもとより、事件の有無すらも、全く意見の一致を見ていない。
南京事件があったとする人々は、日本軍による虐殺事件とされるものを積み上げるも、1つの事件ですら、発生日時場所、加害者、被害者、経緯を明らかにした、虐殺事件として確定できるものがない。
一方、南京事件がなかったとする人々においては、南京事件は中国側の反日プロパガンダであるとし、そもそも南京城内の市民人口が減少していないことや、中国側の国際宣伝組織の活動、そして反日プロパガンダに加担した一部の欧米人の存在などを明らかにするも、なぜ現地にいた第三者とされる数多くの欧米人が、南京事件についての何らかの記録を残しているのか、という根本的な問いへの明確なる答えを持っていない。どちらの方向性にせよ、このまま従来の方針の延長でどれほど研究を進めても、永遠に結論に達しないものと思われる。」
著者が宣教師の存在に注目し、彼らの目的と、全ての嘘の発信源が、彼らの嘘の報告にあることを明らかにし、そのことによって南京事件の有無に関する論争は大いに止めを刺されるとは認められるが、この著者の研究の指摘がなければ、南京事件の有無の論争はいつまでも結論に達しないというのは誤りではないか。
南京事件はあったとするあった派も、虐殺事件として確定できるもの、つまりあったことを証明する第1次史料的なものを持っていない。だったら、通常はなかったと認めるのが研究者として通常の在り方ではないか。にもかかわらず、通常の在り方に従わず、あったと主張を続けるのだ。それゆえにあった派がいつまでも存在しつけるのではないか。もともと南京事件は存在しなかったのだから、あったということを示す第1次史料のようなものがないのは当然であり、それでもあったとするのは、その研究者の研究者としての人間性の問題ではないか。研究者として真実に尽くすという心知的素直さがなく、社会的責任を平然と無視しうるのだ。その人間性こそが問題なのではないか。
したがって論争それ自体において結論が出ないというのとは違う。そのことを指摘して欲しかった。というのも、上記のような質の悪い人たちは、もしかして本書を読んでも、なおあったという主張を取り下げないかもしれないからである。
いずれにせよ、本書は、南京事件はあったとする嘘の論は、日本軍南京攻略の際に南京市内にいた宣教師の発した嘘の報告からできたものであることを明らかにし、そしてその嘘が流れていく過程を明らかにした極めて有用な研究書である。世界の人々に読まれるべき研究書だという評価を与えてよい研究書だと思われる。
