2021年(令和4年)12月1日
国際歴史論戦研究所 研究員 野々田峰寛
はじめに
本稿はパーソナルコンピュータ(以下PC)向けオペレーティングシステム(以下OS)の技術と教育用PCの予算化によって起こった日本国内のPC用OSのシェア争い、並行して生じた日米の貿易摩擦とそれに伴う日本のコンピュータ産業の動向を示す。これらの経緯を通じて日本の技術の保護と発展について論じる。
TRONとMS-DOS
TRON(The Real-time Operating system Nucleus)プロジェクトは国産OSの開発プロジェクトとして1984年にスタートした [1]。TRONプロジェクトは様々な成果を挙げ、家電の制御やPC向けのOSを開発した。このうち家電を制御する基本ソフトウェアとして現在もTRONプロジェクトの成果物であるITRONが使われている [2]。ITRONの仕様や安定性、即時性を追求したOSであることが採用される要因にある。1989年TRONプロジェクトはPC向けのOSとしてBTRONをリリースした。BTRONは現在のWindowsやMacOSのようにグラフィック画面からマウスを用いて操作するグラフィックユーザーインターフェース(Graphic User Interface)のOSである。
一方米国ではマイクロソフトが1981年に初版のMS-DOSを発売した。MS-DOSはコマンド(文字)ベースでPCを制御するキャラクターユーザーインターフェース(Character User Interface)のOSである。MS-DOSはシアトル・コンピュータ・プロダクツが開発し、販売した86-DOSを買収して最初のバージョンが開発された [3]。マイクロソフトは設立当初は既存の製品を買収し、手を加えて、自社製品として発売する手法を採っていた。
1985年、臨時教育審議会(臨教審)は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画 [4]を策定し、学校へのコンピュータ導入のための予算を初めて計上した。1986年、通商産業省と文部省が財団法人コンピュータ教育開発センター(CEC)(現在、日本教育工学振興会と合併し、日本教育情報化振興会)を設立し [4]、日本の教育用パソコンOSの標準化を図るために、BTRONを日本の学校教育における標準OSとして検討を始める [5]。日本でPCを使うに当たっては日本語を使えることが要件として求められていたため、米国企業の参入が困難であった。このような背景があって、日本語を扱えるNEC以外のメーカーはPCのシェアが非常に少なかった。CECに加盟したPCメーカーは策定した仕様に則ったPCをつくることで国費によって確保された教育用PCの市場を取り、NECのシェアに食い込もうとする。1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した [1]。この頃、教育用PCを含め大きなシェアを取っていたNECはPC-8801シリーズからPC-9801への移行期にあたる。PC-9801では、日本語MS-DOSを採用していた。このため、NECはBTRONの採用を渋っていたが、半年以上の交渉を重ねた末、BTRONとMS-DOSのデュアル構成を採用することとした [6]。
日米貿易摩擦
国内のOS仕様が確定しつつある時期と同じくして日米間で起こったのが日米貿易摩擦である。筆者も子供心ながらに日本車が破壊されているシーンがテレビで流れたことを覚えている。
1989年米国通商代表部(USTR)が発行した報告書『外国貿易障壁報告書』 [7]にて、その他のセクションの中でTRONが列挙され [8]、包括通商法スーパー301条 [9]に基づく制裁の候補とされた。TRON協会はUSTRに対して「誤解だ」として抗議文を送り、USTRは誤解を解き、この時はスーパー301条対象品目から外された [10]。
しかし、これを契機としてNECはBTRONの採用を見送る。この結果、CECはBTRON仕様による規格統一を断念する [11]。NEC以外の多くのメーカーがBTRON仕様のOSを採用していた。しかし、すでにデータやプログラムを豊富に持っていたNECのシェアに敵わず、徐々に撤退していくことになる。このような経過をたどり、PC用OSは教育用PCを含め、BTRONよりもMS-DOSのシェアが拡大することとなった。
外圧に負けた日本政府の貿易・外交
TRONプロジェクトはUSTRに対して反論書を提出している [10]。これを受けて、USTRはTRONへのスーパー301条の適用を取り下げたが、反論書への回答で「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」という趣旨の回答をしている [1]。市場自身がOSを選定すべきであると指摘しているにもかかわらず、スーパー301条対象品目となっているは、実際は米国の陰の保護貿易体制が敷かれていたことが明確になる。TRONプロジェクトはUSTRの回答に対して再度見解を表明したが [10]、ここで、日本政府ならびにCECが再反論をすることはなかった。特に政府による再反論は必要ではなかったのではないか。結果として、1990年再度貿易障壁年次報告にてBTRONが再度リストアップされることになった [1]。この背景には、BTRONがリリースされたOSはもとより作り上げた仕様の完成度に米国側が驚異を感じたのではないかと考える。MS-DOSと対比すると、BTRONは優技術的優位性を持っていたが、優位性よりも事実上標準化されたOSがシェアを確保することになる。技術的には理想的なコンピュータのあり方を模索したプロジェクトであったため、従来から豊富に蓄積されていたNEC PCのデータ資産を使えるようになっていなかった。米国に技術的には脅威を与えるほどの品質のOSであったにも関わらず事実上の標準としてMS-DOSが普及することになったため、BTRONは日の目を見ることははなかった。
一方政治的側面からは、産学の工学技術を護り育てるという政府の姿勢がなかったことが原因であると筆者は考える。
日本の技術者への待遇の低さも問題である。代表的な例として中村修二氏は世界で初めて青色発光ダイオードの開発に成功し、これにより初めて白色をデジタル上で構成できるようになった [12]。しかし、中村氏は開発時に所属していた会社の待遇に不満があったこと [13]、十分な研究費獲得のため米国の研究費の支給を受けるために米国籍を取得し、転出する [14]。また、日本の高い技術力を狙う新興国も日本の技術者をヘッドハンティングしており [15]、日本の技術力は低下し、新興国に追い抜かれる状況が生まれている。
研究者支援も問題として指摘しておかなければならない。研究者支援の一環である科研費から考えても、工学系の研究への科研費投入は低い。文科系で数億の科研費を受けている研究が見られるが、工学系でその規模の科研費を受けている研究は多く見られない。日本学術振興会の審査体制にも問題があるのではないかと考える。
おわりに
本稿では技術面でOSの歴史と政治面での日米貿易摩擦に触れ、一つの優れた国産技術が衰退する結果までを論じてきた。日本が本来持っている技術力は非常に高度であるが、待遇や支援の不備からそれが十分に生かされないことを示した。
大東亜戦争後、日本はことさらアメリカのご機嫌を伺い何かとアメリカの意向に沿う関係にあるのではないだろうか。例えば、在日米軍の日米地位協定による不平等や年次要望書に書かれた通りに日本が政策を進めるというようなケースが挙げられる。その背後には日本の安全保障を米国に依存していることがある。米国は80年代に日本の経済的技術的な台頭に対して経済面での敵として日本を挙げ攻撃した。本論説で述べたTRONはその最たる例である。日本が自主独立した国となるためには日米地位協定の改定を求めるための日本人の意識改革や粘り強い交渉が求められる。年次要望書に対しては日本の国益に鑑みて断固たる日本の意思を示すことが重要である。
日米繊維交渉のように、政治課題のバーターとして特定の産業が泥をかぶったこともある [16]。日本政府はこの反省を踏まえない外交を続けている傾向があるように感じる。日本の高い技術力が海外に流出し、開発できなくなるような事態を招いてはならない。長期的な視点で技術を評価し、技術発展に投資をした上で自由市場の中で勝負できる環境作りが必要である。
新たなコンピュータ技術における貿易問題として日米半導体協定 [17]がある。第2次半導体協定では、国内シェアの20%以上を海外メーカーへ開放することを求められている。これにより、日本における海外で製造された半導体のシェアが増加することによって日本の半導体生産能力は衰退した。この状態はさらに加速し、半導体の生産拠点が日本から海外へと移転し、製造技術の流出が問題となっているだけでなく、もはや日本国内で半導体が作れない状態となっている。この影響は現在日本が優位性を持っているスーパーコンピュータの分野で専用的に使われる半導体の設計技術を日本が護り続けることができるかの分水嶺にある。このような技術が海外流出すれば、国産コンピュータ技術は完全に衰退したと言っても過言ではない。日本がコンピュータ技術の発展から落ちこぼれることのないよう、日本政府にはあらためて自由市場で戦える技術開発への支援と外交交渉力の向上を求めたい。
引用文献
1. 倉田啓一. TRONプロジェクトの標準化における成功・失敗要因. 石川県能美市 : 北陸先端科学技術大学院大学, 2005.
2. TRONフォーラム. ITRON. (オンライン) (引用日: 2022年10月12日.) https://www.tron.org/ja/tron-project/itron/.
3. 粟野邦夫. MS-DOSってなんどすか? 東京都渋谷区 : ビー・エヌ・エヌ, 1987.
4. 樋田大二郎, 五藤博義. 学校へのコンピュータ導入の現状 ―コンピュータは学校、教師、子どもをどのように変えるのか. ベネッセ教育総合研究所. (オンライン) ベネッセ委, 1992年. (引用日: 2022年10月31日.) https://berd.benesse.jp/ict/research/detail1.php?id=3315.
5. 倉田啓一. TRONプロジェクトのデファクト標準に関する調査研究. (オンライン) (引用日: 2022年10月31日.) https://www.jstage.jst.go.jp/article/randi/16/0/16_193/_pdf.
6. TRONフォーラム. TRONプロジェクトの30年. TRONプロジェクト30年の歩み. (オンライン) (引用日: 2022年10月28日.) https://30th.tron.org/tp30-06.html.
7. USTR. 1989 National Trade Estimate Report on Foreign Trade Barriers. 1989.
8. 玄 忠雄. 国産OS「BTRON」が日米の貿易問題になった1989年. 日経XTECH. (オンライン) 2019年6月15日. (引用日: 2022年10月28日.) https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00215/060300034/.
9. 1974年通商法. (オンライン) (引用日: 2022年10月12日.) http://customs.starfree.jp/Trade%20Act%20of%201974j.pdf.
10. TRON協会. 通商問題経緯. (オンライン) (引用日: 2022年10月12日.) https://web.archive.org/web/20100714120633/http://www.assoc.tron.org/jpn/intro/s_301.html.
11. 日経コンピュータ. 1989.
12. 青色LEDがノーベル賞に値する理由. WIRED. (オンライン) 2014年10月9日. (引用日: 2022年10月31日.) https://wired.jp/2014/10/09/nobel-prize-blue-leds/.
13. 中村修二. 負けてたまるか! ― 青色発光ダイオード開発者の言い分 ―. 東京都中央区 : 朝日新聞出版, 2004.
14. ノーベル賞の中村修二氏、「アメリカの市民権」を取った理由を語る. withnews. (オンライン) 2014年10月18日. (引用日: 2022年10月31日.) https://withnews.jp/article/f0141018000qq000000000000000G0010401qq000010997A.
15. 高橋 史忠、佐伯 真也. 韓国企業に転職したワケ、日本人技術者3人に聞く. 日経エレクトロニクス. (オンライン) 2012年11月16日. (引用日: 2022年10月31日.) https://xtech.nikkei.com/dm/article/FEATURE/20121105/249381/.
16. 大慈弥嘉久白石孝,三橋規宏. 日米繊維交渉と70年代ビジョン. 出版地不明 : 通産ジャーナル, 1993年12月.
17. 東壯一郎. 半導体企業の設備投資に関する実証研究 : 日米半導体協定の影響について. 兵庫県西宮市 : 関西学院大学商学研究, 2015.