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歴史戦における日独比較論について

英語版:https://en.i-rich.org/archives/678

国際歴史論戦研究所 顧問
山上信吾

アイリス・チャン著「レイプ・オブ・南京」(1996年)やブライアン・マーク・リッグ著「ホロコースト・オブ・ジャパン」(2024年)など、歴史問題で厳しく日本を指弾する米国人には、ナチ・ドイツとの比較という視座から戦争、そして戦後処理を論じる性癖が散見される。

ニュルンベルグ裁判でナチを断罪し、東京裁判で「軍国主義者」を断罪しようとしたのが第二次大戦の戦後処理の出発点であったことが作用している。

枢軸国と連合国が主要な対立軸であったことを踏まえると、連合国側が日独を同じバスケットに入れて論じたがる傾向は理解し得るが、置かれた戦略環境は勿論、達成しようとしていた戦争目的も大きく異なる。

三国軍事同盟下でも、戦争遂行において碌な連携が行われなったことは周知のとおりだ。日本軍が真珠湾ではなく、マレー半島、シンガポールに兵を進めた後にインドを背後から突けば大英敵国は瓦解したろうとの指摘もあるが、そのような日独提携は実現しなかった。バトル・オブ・ブリテンにおける英国の粘り強い抵抗に遭い、矛先をソ連に向けたヒトラー。日本がソ連を挟み撃ちすることはなかった。当時の日本は、ソ連が恐れていた北進論ではなく南進論を取り、独が参戦を回避しようとしていたアメリカに宣戦布告した。こうした展開自体、日独同盟が「便宜上の結婚」に過ぎなかったことを裏付けている。

さらに、日本が中国戦線で苦戦した背景には、独の軍事顧問団の指導により中華民国が上海や南京の防御を強化し、頑強な抗戦を可能にしたことも記しておかなければならない。

日独の行為の違い

最も重要な違いは何をしたか、だ。

独の場合、直面を迫られた課題は、600万人ものユダヤ人を戦線から遠く離れた平和な後背地で組織的・計画的に殺害した行為だ。大日本帝国は反ユダヤ主義には与さなかった。ユダヤ人は勿論、中国人、朝鮮人であれ、特定の民族の殲滅を試みたことなど無い。

例えば、杉原千畝はリトアニアにあって、ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人に日本通過のビザを発給し続けた。数千人に上るユダヤ人が日本経由で米国、豪州などの安全な地に逃れることができたため、「命のビザ」と呼ばれた。救われたユダヤ人子孫は10万人に達すると言われる。人道的に顕著な功績により、イスラエル政府により「諸国民の中の正義の人」として表彰され、日本人で唯一の受賞者となった。

ハルビン陸軍特務機関長の任にあった樋口季一郎陸軍少将(当時。のち中将)も、欧州を逃れて満州国境に押し寄せたユダヤ人に満州通過を認め、安全な地へ逃れる「樋口ルート」を作った。

戦後処理の取組み

独の場合は長く東西に分裂していた特殊事情のため、日本のように平和条約を締結できなかった。分断がいつまで続くかわからない状況下、独はナチス迫害の犠牲者に対する個人補償の形で多額の支払いを行ってきている。ホロコーストを主とするナチスの犯罪行為は、第二次大戦開始以前から組織的に遂行され、犠牲者の多くがドイツ統治・占領下の民衆だった。通常の戦争犯罪とは異なる次元の反人道的犯罪だった。ちなみに、東京裁判ではニュルンベルグ裁判とは異なり、いわゆる「人道に対する罪」で有罪とされた被告は存在しない。

一方で国家賠償が行われてこなかったため、例えば、今なおポーランドからドイツに対して賠償要求がなされている。

これに対し日本は、国際社会によって一般的に受け入れられていた戦後処理の方式に従い、米国等との間でサン・フランシスコ平和条約、二国間の平和条約、その他の関連条約等を締結し、第二次大戦に係る賠償、財産及び請求権の問題を国家間で一括処理してきた。

条約等に基づきとられた対応の中には、朝鮮半島、台湾、千島といった領土の放棄に加え、日本が有していた在外財産の放棄がある。その総額については、当時の価格で200億ドルから300億ドル程度とされている。加えて、賠償及び経済協力等として円換算で9500億円近くが供与されてきた。これらの供与のほとんどが1950年代から60年代にかけて実施され、賠償、財産及び請求権の問題は法的に解決済みである。

当時は円、ドル等の貨幣価値も異なり、また日本の経済力は小さかったが、それでも当時の日本が置かれた経済、財政状況の中でできる限り誠実に対応した。例えば、日米の激しい戦闘の舞台となったフィリピンに対する賠償は、1956年に締結された協定に基づき5億5千万ドルが供与された。この額は当時の我が国の外貨準備の58.5パーセント、年間国家予算の18.2パーセントに相当するものであったとされている。

謝罪

「ドイツは謝罪しているのに、日本は謝罪していない。」という批判は、中国共産党が歴史カードを振りかざす時に必ず使う常套文句だ。

事実は、こうした批判がかつての戦争プロパガンダに近い一方的な「戦後プロパガンダ」であることを明示している。

ドイツでは、有名なヴァイツゼッカー大統領演説(1985年)。

「罪(Schuld)」とは優れて個人に関わるものであり、国民全体の「集団」の「罪」というものは存在しないとされた一方、ドイツ人には重い「責任」が残されているとして「集団的責任」を肯定し、「罪」の有無に拘わらずこの「責任」を果たしていかなければならないということが述べられた。優れてキリスト教的伝統に基づく歴史観だ。そしてこの演説では、「責任」を果たす手段として、ドイツ人がその過去を受け入れ、忘却しないことであるとされた。

もう一つの有名な演説は、ヘルツォーク大統領がワルシャワ蜂起50周年記念式典(1994年)で行ったものだ。

「ワルシャワで蜂起して戦った人々と戦争によるすべてのポーランド人犠牲者に対し頭を垂れる。私は、ドイツ人があなた方に対して行った行為に対して赦しを乞いたい。」としている。通常の謝罪表現である「entschuldigung」というドイツ語ではなく、「赦しを乞う(bitte um Vergebung)」という、相手に対応を任せる表現を用いている。ドイツ国民全体の「集団的罪」を否定した前記の立場からは、このような表現方法が論理的必然ともいえる。要は、日本とはロジックを異にしており、単純な比較はできない。

日本の場合には、様々な機会に、よりストレートに反省とお詫びの気持ちを表明してきた。

典型が1995年8月15日の内閣総理大臣談話だ。このいわゆる「村山談話」では、我が国が過去の一時期に植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止めるとし、痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明している。遥かに直接的な謝罪なのだ。

終わりに

歴史戦では、日本批判の材料としてしばしば駆使されてきた日独比較論。

日本政府にあっては、基本的価値を共有する友好国ドイツに対する配慮が先に立って、奥歯にものが挟まった説明に終始してきた感が否めない。

また、ドイツについてはナチという団体に責任を帰す動きがあった一方、日本においては、いわゆるA級戦犯のような一部軍国主義者に責任を帰して事済ませる「二分論」に与することを潔しとしなかった知的誠実さがある面も忘れてはなるまい。

以上の論点整理が何らかの参考になれば幸いである。