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国際歴史論戦研究所
会長 杉原誠四郎
昨年は戦後80年の年だった。その総括として、日本の「戦後」に、「敗戦利得者」が支配し、日本が日本でなくなった時代があったことが認知されておかなければならないのではないか。戦後80年の令和7年、「敗戦利得者」の支配から脱出している気配はあるものの、いまだそれによってもたらされた深刻な歪みの中に今なお日本のあることが、戦後80年の現在、自覚されていかなければならないのではないか。
「敗戦利得者」とは、まさに名辞のとおり、敗戦によって利得を得た人たちである。さらには、本来、公職追放によって追放されるはずなのに上手に立ち回り、占領軍に媚びて地位を守った人たちが加わる。
1941年12月7日(アメリカ暦)に日本海軍の真珠湾攻撃がなされ、その翌日の12月8日、ルーズベルト大統領は上下両院議会で、日本は
日米平和交渉のさなか、いかなる警告もなく突如(suddenly)として攻撃してきたと言い、これは長い日時をかけて緻密に計画した(deliberately)行為であり、断じて許すことはできないと演説した。日本の卑劣さを痛烈に訴え、女性議員1人を除く全議員が日本との戦争に賛同した。それまで戦争を忌避していたアメリカ国民は、この瞬間から”リメンバーパールハーバー“と唱え、一致団結、日本を打ちのめそうと誓ったのだ。
このような国民の怒りを基盤にしてルーズベルトは1943年(昭和18年)1月、カサブランカでイギリスの首相チャーチルと会談したさい、記者会見であたかも舌が滑ったかのように装ってドイツ、日本、イタリアの降伏は「無条件降伏」だと宣言をした。引き続いてルーズベルトは、1945年(昭和20年)2月、ヤルタでスターリンとの間で、ソ連は独ソ戦終了後2カ月ないし3か月後に対日参戦をするという密約を結んだ。翌日、この密約を知ったチャーチルは、そのことを日本に宣告して降伏するよう迫れば、日本は降伏し日本との戦争は早く終わるのではないかと言った。が、ルーズベルトは、このチャーチルの申し出を、にべもなく断った。
ルーズベルトは日本も、その後にドイツで起こったのと同じように国土を完全に軍事占領し、国家を完全に破壊することを考えていたということになる。この時点で原爆はまだ完成しておらず、原爆については対日戦でどのように対処するのかは未定のままだったが、ルーズベルトは、日本に対して原爆投下よりさらに苛酷な運命を押しつけようとしていたということになる。幸いにして、ルーズベルトはその後4月12日急死し、その死後、日米開戦時に駐日アメリカ大使をしていたジョセフ・グルーらの努力によってポツダム宣言が出し、日本はそれを受諾するという形で日米戦争を終えることができ、ルーズベルトの考えていた日本の壊滅は避けられた。
ルーズベルトが急死すると直ちに副大統領トルーマンが大統領になったが、トルーマンは、直ちに、ルーズベルトの路線を堅持すると宣して、日本に対するアメリカの要求は無条件降伏であると述べた。6月18日、トルーマンはホワイトハウスに軍部の幹部を集めて対日戦の軍事に関する最終方針を決める会議を開いた。そこで「無条件降伏」に固執するのは犠牲が大きくなるばかりでよくないという意見が軍部から出たが、アメリカ国民の怒りを受けとめて、トルーマンは、この問題について世論を変えさせるというのは今の私にはできない、と言って、無条件降伏方式の継続を宣し、すでに日本は敗北していることが明瞭に分かっているのに、計画中の日本本土上陸作戦の実行を正式に決めた。
そして上記のとおり、グルーらの努力でポツダム宣言が出て日本本土上陸作戦は実行されないままに終わるのであるが、原爆投下は避けられなかった。アメリカはどうして無条件降伏の旗を降ろすことができなかったのか。それは日米開戦に当たり、日本は真珠湾で卑怯な「騙し討ち」をしたと思いこんでいたからである。確かに攻撃前に何らメッセージを送っていなかったので「騙し討ち」には違いない。
が、日本政府は、本来、真珠湾攻撃開始の30分前に「最後通告」をハル国務長官に手交する予定であった。が、肝心の、ワシントンの日本大使館において起こった事務失態によって、所定の時間に手交できなかったのだ。本省より緊急態勢を敷けと指示がきているにもかかわらず、担当責任者が緊急態勢を敷かず、そして解読電報をタイプ打ちする担当者が館外に遊びに出かけ、そのために所定時間内にタイプを打ち終わらなかったから、所定の時間に手交ができなかったのだ。
ルーズベルト及び軍首脳部は、日本の外交電報をことごとく解読して読んでいたから、手交遅延は大使館内の事務失態によることを明確に知っていた。が、そのことを議会や国民の前では明かさなかった。ルーズベルトが急死し、トルーマンが大統領になったとき、トルーマンはそうしたことの真実を知らず、国民とともに、日本は卑劣な「騙し討ち」を本当にしたのだと思いこんでいたから、「無条件降伏」の旗を降ろすことはできなかった。そして8月6日の広島の原爆投下のさいにも、長崎の原爆投下のさいにも、トルーマンはこれで「騙し討ち」の仇を取ったと言った。
とすれば、「最後通告」手交遅延は、それをルーズベルトが利用することによって日本はいかに苛酷な戦争を強いられることになったかということになる。前述のとおり、ポツダム宣言が出て、ソ連が日本本土に侵攻してくる前に降伏することができたが、原爆投下は避けられなかった。
かくも苛酷な戦争となった「騙し討ち」の問題は日本ではどう扱われたか。
戦争のさなか、交換船に乗って、ワシントンの日本大使館の職員は全員日本に帰ってきた。その中には、当然、「最後通告」手交遅延の直接の原因をつくった2人の職員も含まれていた。「最後通告」手交遅延は重大な問題だが、激しい戦争のさなか、問題にする余裕はなく放置された。そして占領が始まったが、占領軍にとっても、開戦において、なぜ日本は無通告の「騙し討ち」をしたのか、不思議だった。アメリカ人を怒らせるだけの意味しかない「騙し討ち」をなぜしたのか分からなかった。
昭和20年9月26日、天皇とマッカーサーの第1回会談があったが、天皇は、日米開戦が「騙し討ち」になったことにつき、「東条に騙された」というような意味のことを言った。外務省の用意した回答がそうであったからだが、それは外相になっていた吉田茂の画策によるものだった。
これほど重要な責任問題が外務省内で問題にならないはずない。昭和21年4月前後、外務省内で、「最後通告」手交遅延となった経緯を徹底的に明らかにしようとする調査が始まった。が、この調査が始まると、外相の吉田茂が中止するよう命じた。
「騙し討ち」に関する吉田の責任隠しの行動はこの調査の中止だけでは終わらなかった。占領の終結を迎えたとき、日米開戦前夜、本省より館内に緊急態勢を敷くよう指示が来ているのにもかかわらず緊急態勢を敷かなかった責任者を懲戒免職に付さないばかりか外務次官に抜擢したのである。そしてさらに主権回付後には、タイプ打たなければならないのに館外に遊びに出かけたもう1人の責任者も外務次官に抜擢したのである。
吉田茂は「騙し討ち」の責任を隠すのみではなかった。かの戦争に関わる外務省の責任を画すべく、外務省の人事でさらに驚くべきことをした。日米戦争の最も責任を負っている、日米開戦時にワシントンの日本大使館と、ドイツ、ベルリンの日本大使館に詰めていた者たちで固めていたのだ。すなわち吉田は、そうすることによって外務省自信が語れないようにし、日米戦争に関わる外務省の責任全体を完璧に隠したということになる。
吉田茂の、外務省の戦争責任隠しはもっと大規模だった。昭和27年4月28日主権回付後も首相を務めた吉田茂は、主権回復後、先ずしなければならないのは、占領下で解散させられた「戦争調査会」の再開だったが、その再開をしなかったのだ。
昭和20年10月9日成立した幣原喜重郎内閣では、戦争の原因と実相を日本人自身によって明らかにしなければならないとして、戦争を調査する「戦争調査会」なるものを閣議決定して発足させた。が、戦争に関する調査をするといえば、戦争に関わる真実追究となるのは必然で、それは嘘にまみれている連合国にとって困ることだった。特に日ソ中立条約を破って日本に侵攻したソ連にとっては困ることであり、そのためソ連が中心になって提案し「戦争調査会」は占領軍に命じられて解散させられたのである。
とすれば、主権回復後も首相を務めた吉田茂としては、真っ先にしなければならないのはこの「戦争調査会」の再開であった。が、吉田は「戦争調査会」を開かなかった。というより開くことができなかった。というのも戦争に関わる真相を追究するとすれば、かの戦争の外務省の負うべき責任も明らかにしなければならなくなる。
ところで、吉田が「戦争調査会」を開催しなかったことの悪しき影響は大きい。「戦争調査」を再開させておれば、占領下の日本の在った在り方の問題にも及ぶであろう。そうすれば、占領下の厳しい検閲体制の下、日本国民は言論の自由を持たず、「閉された言語空間」に閉じ込められていたということもこの時点で明らかとなるであろう。
戦争調査会を開催しておれば、日本国民は占領下で「閉された言語空間」に閉じこめられていたことが明らかとなり、そのことによって日本国民はその「閉された言語空間」から脱出できる機会を得ることになったであろう。が、しかし開催しなければ、占領下で占領軍によってつくられた「閉された言語空間」は極めて巧妙につくられ、その存在が一般の日本国民には分からなかったから、その「閉された言語空間」はそのまま無自覚なままに続くことになるではないか。
つまりは、占領下では占領軍による「閉された言語空間」が、主権回復後は日本人自身の手によって続く「閉した言語空間」になる。
そしてさらにいえることがある。そうした「閉された言語空間」の中で、占領期に占領軍が日本人に刷りこもうとした「自虐史観」は繁茂し続けることになることだ。
そしてさらにいえることは、この「自虐史観」は、戦争責任を隠した外務省にとって極めて都合のよいものだということだ。占領軍の強いた「自虐史観」は簡潔にいえば、かの戦争は軍部が国民を騙して行った侵略戦争だということである。外務省の責任が問われていない。これは外務省にとって好都合である。結局、外務省は、逆に「自虐史観」を温存させる政府機関となったということである。
その悪影響は主権回復後、年月の経過とともに深刻になる。昭和27年の主権回復の時点では、占領下の東京裁判で糾弾された南京事件など、その存在を信じている日本国民はほとんどいなかった。にもかかわらず、「閉された言語空間」の中で、やがて日本人自身があったと言い出すようになり、戦後80年、一時期は本当にあったことになってしまったのである。慰安婦の強制連行も、「閉された言語空間」の中で、実際にあったこととして信じられる時期が存在したのである。
吉田茂は主権回復後も首相を務めることによって、占領軍の占領による負の遺産を主権回復後の日本にもそのまま継承させるという極めて悪しき悪行はさまざまあるが、中でも憲法第9条をめぐる自衛権の問題は深刻であり、今日なおその悪しき桎梏の中に日本はある。
吉田は第9条をして自衛権は認められるが、「戦力」と「交戦権」は持たないという解釈を政府の公権解釈にした。これは占領下、マッカーサーとの関係では、何らか一定の意味があったかもしれないが、主権回復後はその解釈は維持してはならず、主権回復と同時に解釈を改めるべきであった。できないというのであれば、直ちに憲法改正に取り組むべきであった。
が、本来は、日本国憲法第9条は、国家としての自衛権の問題であるから、本来、条理解釈をしなければならないはずである。条理解釈すれば、自衛戦争に限るものとして、「戦力」も「交戦権」も保持するというのが憲法学的に正しいということになる。そうでないと第66条第2項の、国務大臣は文民でなければならないという文民条項と文理的にも整合性も取れない。
この点、新しい歴史教科書をつくる会の『新しい公民教科書』の代表執筆者小山常実が、私との共著『憲法及び皇室典範諭』(自由社 2017年)で敬服すべきことを言っている。この憲法は占領下で事実上占領軍の押しつけによってできたこともあって、本来、無効な部分がある。そのため一度全体を無効だと宣言して、その上で現実に有効である部分を制定時点に遡って有効だと宣すればよいとの主張である。そうすれば、自衛権を認めておりながら、「戦力」も「交戦権」も否定するのは自然法に反するということになるので、この第9条を有効にするためには解釈として「戦力」も「交戦権」も自衛戦争に関して保持していると解釈しなければならないということになる。全ての憲法学者、国会議員が傾聴すべき指摘ではないか。
が、第9条に関する日本の憲法学は、大まかに見れば、今日の政府の公権解釈と大同小異である。そして憲法の貢献解釈は、占領期、東大法学部でつくられた法学者によってつくられた憲法学の解釈に近いものになっている。その東大の憲法学こそは、典型的「敗戦利得者」というべき憲法学者、宮沢俊義が中心になってつくったものである。彼は敗戦直後、大日本帝国憲法を改正する必要はないと豪語していたが、昭和21年1月占領軍より公職追放令が出ると、一夜にして占領軍に媚びる憲法学を展開するようになる。
とすれば、現在も政府に影響を与え、憲法学の主流となっている東大法学部の憲法学は「敗戦利得者」によってつくられた「敗戦利得者憲法学」ということになる。それが占領期につくられ、現在の東大法学部の憲法学として現在にも引き継がれているのだ。学者の世界は一種の家元制度であり、いったんできた憲法学は、それが偽りであると分かっていても、それを承認し維持する者でなければその後継の教授の椅子に着くことはできない。日本の憲法学は今日も「敗戦利得者憲法学」のままであり、それが家元制度によって引き継がれているのである。とすれば、東大法学部の中で真正の憲法学に帰る見込はない。それから脱するのは、政府がその解釈から脱出し本来の憲法解釈を宣するようにする以外には希望がない。そして政府にそのような真正な憲法学に従わせるようにするのは国民の力である。
東大法学部の憲法学がいかにいかがわしいか。マッカーサーが天皇は元首であると言って押しつけ憲法をつくらせたことが分からなかった占領期、東大法学部の宮沢俊義らは占領軍に媚びて、天皇は国の元首ではないという解釈を打ち出した。その影響を受けて現在の日本政府も天皇を元首であるということをはっきりとは言わない。政府が国民の要請を受けて天皇は元首であるという解釈を打ち立てることは容易であることを日本国民は自覚しなければならない。この間、因みにいえば、倉山満『東大法学部という洗脳』(ビジネス社 2019年)がある。
「敗戦利得者」が国家、社会を支配していた時期に、彼らがつくった吉田茂への評価に、吉田茂は戦後の日本の経済発展に貢献したという評価がある。これも全く根拠のない評価である。
戦後の日本の経済発展の設計図は全て占領軍がつくった。冷戦が進行するなか、占領軍は日本を経済的に豊かにする方針を明確に打ち出し、1948年(昭和23年)には早くもアメリカ本国からドッジがやってきて経済成長9原則なるものを強要してきた。それに加えてアメリカとの貿易を無制限に許容した。さらには日本国民に恨まれることにないように、アメリカ資本の侵入を阻止した。
吉田茂の経済成長への貢献を、軽武装にしたからだという評価もある。が、これも「敗戦利得者」がつくりあげた根拠のない評価である。韓国は朝鮮戦争で国土が荒れ、経済成長のため日本からの巨額な賠償金を必要としたが、しかし、一時は7%前後の巨額の国防費を負担しながら、現在のように高度に経済繁栄をした国を築いたではないか。
吉田茂は占領期にマッカーサーと円滑な関係を結んだことはある程度評価してもよいが、それ以外は害悪しか残さなかった。そうした「敗戦利得者」が跋扈し支配する中で、例えば昭和39年には、昭和20年、東京空襲で10万人を殺したカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を贈るというような、とんでもない珍事が起きたりした。
吉田茂が昭和42年10月20日亡くなると、時の日本の国家と社会は彼を国葬にして見送った。国家、社会が全く「敗戦利得者」によって牛耳られ、支配されていた時代だからこそ、彼らの親玉の中の親玉、大親玉である吉田茂を国葬にするのは当然である。
「閉された言語空間」は昭和54年から昭和55年にかけて江藤淳によってその存在が暴かれ、現在の日本は「閉された言語空間」からかなり解放されている。「閉された言語空間」の真っただ中では、「平和」を語るのにかの戦争で国のために戦って散っていった兵士を見ないふりをしたり無視したりしてしか語れなかったが、今日では、これら戦って犠牲となった人たちを素直に偲びながら「平和」を語ることができるようになってきたといえる。「敗戦利得者」が牛耳った時代は確かに終わっているのである。
が、いずれにしても、戦後80年、我々は「敗戦利得者」が君臨し支配した時代があったことを明確に認識しなければならない。そうしなければ、本来の日本に立ち帰ることはできない。
これだけ戦後の日本に害悪をもたらした吉田茂が、いまだ断トツに戦後最大の宰相だという評価が日本の国家、社会に定着している。そして「敗戦利得者」たちが残した負の遺産の1つといえるのであるが、国家の論理的中枢となる憲法学にあっては、占領下で「敗戦利得者」によってつくられた「敗戦利得者憲法学」が、今なお学者の世界の家元制度によって引き継がれ、現在の日本にあっても厳として君臨している。すなわち、憲法学を例に、いまだ「敗戦利得者」のつくった負の遺産の日本に対する拘束はいまだ終わっていないのである。だからこそ、現在に生きる我々日本国民は、戦後80年、「敗戦利得者」が牛耳り支配した時代があり、そして彼らが主権回復時に、清算できたはずの占領の負の遺産を清算せず、それどころか逆に拡大して継承して、今日の日本を厳しく拘束していることを明確に認識していかなければならないのではないか。
日本は昭和16年12月8日、勝てるはずのない対米戦争に踏み切り、そして徹底的に敗北し、そしてその敗北のもと占領があって不可避的に、アメリカと日本との間に、半永久的に強弱の関係ができてしまった、つまり端的にいえば支配と従属の関係ができてしまった。それは戦争を経たゆえの不可避だということでやむをえないともいえなくはないが、占領軍も予期せず、期待もしていなかった占領軍のなした占領政策の悪しき部分までを、日本は主権回復時に清算できるはずだったのに、実際は逆に拡大して継承していったのだ、そしてそれは吉田茂を親玉とする「敗戦利得者」たちによってなされたのだ、ということを、戦後80年の現時点で日本国民は確認し、銘記すべきではないか。
すなわち、昭和27年4月28日、主権回復に当たって、日本国家をして、外務省の戦争責任を完全隠蔽することによって、「自虐史観」を明確に奉戴した国家として、そして憲法第9条をめぐっては自分の国を自分で守るという論理を持たない半国家の国家として、出発させることにした吉田茂をして、昭和42年10月20日の死去に際しては、客観的根拠は全くないのに軽武装重経済の政策のもと、日本をみごとに復活させた大宰相として国葬にして見送った、という、それほどに、日本にあっては「敗戦利得者」が牛耳り、跋扈し、支配した時代があったということを、戦後80年の節目の年に、日本国民は自覚すべきだということだ。
