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日中戦争の事実を書かない歴史教科書

国際歴史論戦研究所
上席研究員 茂木弘道

【英語版】https://i-rich.org/?p=2185

1.中学校の歴史教科書で盧溝橋事件と日中戦争はどのように書かれているのか?

日中戦争の始まりである盧溝橋事件とその後の戦争の拡大を各社の教科書ではどのように書かれているであろうか?

・東京書籍: 1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中両軍の武力
       衝突(盧溝橋事件)をきっかけに日中戦争が始まりました。戦火は
       中国中部の上海に拡大し、全面戦争に発展しました。

・帝国書院: 翌37年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した盧溝橋事件
       をきっかけに、日中戦争が始まりました。日本軍は中国南部からも
       侵攻し、上海や当時国民政府の首都だった南京を占領しました。

教育出版: 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で、日中両軍が武力衝突した盧
       溝橋事件をきっかけに、日中戦争がはじまりました。8月には上海
       にも戦闘が広がり、宣戦布告のないままに、日本軍は次々に兵力を
       増強して戦線を拡大しました。

山川出版: 日中両国の関係が悪化する中、1937(昭和12)年7月、北京
       郊外の盧溝橋で日中両国軍が衝突した(盧溝橋事件)。これに対し
       首相の近衛文麿は当初、事件の不拡大方針を取った。しかし、軍部
       の圧力や軍部を支持する国民を前に、方針を変更し、兵力を増やし
       て背に気を広げたため、全面戦争となった。

日本文教出版: 1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で、日本軍と
         中国軍が衝突する事件が起こりました。この事件をきっかけに
         日中間の戦闘が始まり、8月には上海にも戦火が広がりました。
         こうして日本と中国は宣戦布告のないままに本格的な戦争状態
         に突入しました。(日中戦争)。

・育鵬社: 1937(昭和12)年7月、日中間の緊張が高まるなか、北京に駐
      屯する日本軍が郊外の盧溝橋付近で訓練中に何者間の銃撃を受け、中
      国軍との戦闘が始まりました(盧溝橋事件)。日本の近衛文麿内閣は
      不拡大方針を取りましたが、一方で兵力増強を決定しました。8月、
      中国軍が上海で日本軍将校を殺害し、これをきっかけに中国軍と上海
      駐在の日本軍との間で戦闘が発生しました。

・令和書籍: そして翌昭和12年7月7日、盧溝橋事件が起きました。当時北京
       には、明治33年(1900)に起きた義和団事件以来、条約に基づいて
       日本軍が駐屯していました。北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をし
       ていた日本軍が何者かの銃撃を受け、翌8日夜明けに国民革命軍の
       陣地を攻撃して両軍の戦闘になりました。この事件が起こると、
       早期解決を目指す不拡大派と、これを機に国民革命軍を屈服させ
       ようとする拡大派とが対立しました。…まもなく現地では停戦協定
       が成立しますが、近衛首相は華北への大規模な出兵を決定しました。
       ・・・8月に上海で先端が開かれると、近衛首相は不拡大方針を
       放棄して全面戦争に突入しました。

2.現地停戦協定(7月11日)こそが盧溝橋事件の正体を語っている

ほぼ以上のような記述になっている。東京書籍、帝国書院、教育出版、山川出版、日本文教出版はいずれも、盧溝橋で日中両軍が衝突する事件が起こった、とどちらが攻撃をしたのかを全く触れず、偶発的起こったかのような書き方をしている。そして、事件が拡大して行ったという論調である。

 育鵬社では日本軍が「何者かの銃撃を受けた」と書いているところが上記6社と異なるが、しかし「どちら側の者が」ということには全く触れていない。

 令和書籍も、何者かに銃撃された、とかいていますが、同じく「どちら側の者が」には全く触れていない。

 実は「どちら側の者が」であったのかについては、極めて有力な証拠があるのだ。それは事件の4日後、11月11日に交わされた「現地停戦協定」である。日本軍(支那駐屯軍(6500)と北支の中国軍29軍(10万)双方が合意した文書なので、意味が大きい。次の3項目から成り立っている。

1) 第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任を以て再びかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。

  • 中国軍は、豊台日本軍と接近し過ぎ、事件を惹起し易きを以て盧溝橋付近永定河東岸には軍を駐屯せしめず、保安隊を以てその治安を維持す。
  • 事件はいわゆる藍衣社、共産党、その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。

 第1項で、事件は全面的に中国側にあると謝罪し、責任者処分を約束しているではないか。「何者」かについて特定はできないが、共産党などが怪しいのでその取り締まりを徹底することを第3項で約束している。いずれにしても、犯人は中国側であると詫びている。

 こんな明白な事実があるのに、この協定については全く触れずに、何となく「日中両軍が衝突し」などと書いているのは、まるで犯人隠しをしているようなものではないでか。要するに、偶発的な衝突事件を日本の拡大派が大きな戦争に持って行ったと「日本軍犯人説」を言いたいがためにこの肝心かなめの「現地停戦協定」をネグレクトしているということである。

 実は、自由社の記述も以前は、現地停戦協定には触れたが、この協定の原文を載せることはしていなかった。これを載せたら、日中戦争の犯人は中国である、ということが明々白々になってしまうので、「中国に忖度する」文科省の検定が通らないのではないかと懸念していたためである。

 今回の改訂版では、れっきとした事実を記載することに問題はないはずだとの信念のもと、この協定文をコラム欄に掲載したのである。

 幸い、検定を合格し、晴れて盧溝橋事件の真相に迫る歴史事実を中学の教科書に載せることができたのである。

3.戦争が拡大して行ったのは「拡大派」のせいではなかった

 次に問題なのは、各社ともその後の戦争が拡大して行った理由について、あたかも戦争が自然に拡大して行ったかのように書いたり、あるいは日本政府には「不拡大派」と「拡大派」があり、軍とそれを支持する民衆の声に押されて拡大派が戦争を拡大して行ったという論調で記述していることだ。

 ここで、決定的に欠落している重要な事実がある。それは、7月29日に、「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ)と言われるような日本市民惨殺劇(通州事件)が中国軍によって行われたことである。「暴支膺懲!」の声が日本中に高まっている中、政府は画期的な和平案(船津和平案)を8月5日に策定したことである。政府は、「暴支膺懲」の声を抑えて不拡大方針を貫いたのだ。国民が通州の虐殺に怒って、その怒りが日中戦争の拡大につながった、という説は完全に間違っていることが分かる。

この案をもとに第1回目の交渉が8月9日に行われた。ところがその日の夕方、上海の海軍陸戦隊の大山中尉と斎藤一等水兵が惨殺される事件が起こったのだ。和平を妨害する勢力によるものだ。有名なユン・チアンの『マオ』によると、隠れ共産党員の張治中南京上海防衛司令官が命じて殺害させたということだ。交渉は頓挫したが、日本はこれに怒って攻撃を拡大したわけではなかった。またもや仕掛けたのは中国側であった。その4日後の8月13日、上海の非武装地帯に潜入していた中国正規軍3万が、日本市民3万を守るために駐屯していた、4千5百の海軍陸戦隊に対して全面攻撃をかけてきたのだ。日本人住民の安全と協定無視を放置することができず、日本は内地2個師団派遣を決定した。即ち、戦争の決定的な拡大はこうして中国側が仕掛けたものであり、日本の拡大派が起こしたものでは全くい。さらに15日には中国は全国総動員令を発動しているのである。

 こんな重大な事実が、教科書には全く書かれず、あたかも「拡大派」と国民の怒りが戦争を拡大したかのように書いているのだから全く困ったものである。

 そもそも、東京書籍の教科書では「日中戦争と戦時体制」の項の冒頭で「日本はどのようにして日中戦争を起こし、人々にどのような影響を与えたのでしょうか」と発問しているのである。事実を無視し、最初から日本が日中戦争起こしたという前提で盧溝橋事件とその後の経過を書いているのだ。こんな文字通り「反日」「反事実」記述が文科省の検定を合格するのだから困ったものである。