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安倍総理の居ない世界と近頃の日本社会

国際歴史論戦研究所 顧問 西川京子

【英訳版】https://i-rich.org/?p=1683

 

 改めて実感する安倍総理の強烈な存在感

安倍総理が凶弾に倒れてから一年が経った。その間の喪失感は、少しも薄らぐことはなく、益々、その存在の大きさを痛感する毎日である。それと連動するかのように世の中がどんどんあやしい方向に向かっているように思える。かつての安倍総理、トランプ大統領蜜月時代の世界は、大きな紛争もなく先進国の指導者達も互いに認め合い、均衡を保った世界状況が続いていたように思う。一人、中国が軍事力拡大を計り、南シナ海、東シナ海、日本周辺で侵略行動に出ていた。アメリカの対中政策がこの頃から大きく転換されて、中国という国への警戒感が、先進国の間で、急激に広がっていった。このことに関して、安倍総理の存在がいかに大きかったかを実感する毎日である。トランプ大統領との強い信頼関係の上で、安倍総理は機会があるたびに、大統領に中国という国家の危うさ、独善的政策の怖さを話したと思う。中国の拡大主義は日本を仮想敵国として着々と軍事侵攻をねらっている現状も含めて、アメリカにとってもどれだけ危険かということを告げたと思う。

 戦後、アメリカの対中政策は一貫して親中だった。共和党も含めてだ。中国は、アメリカと日本の多額の経済援助を受け続けて今日に至り、巨大な経済力と軍事力を手に入れた。中国は今や、アメリカをも凌駕しかねないモンスターとなり、強烈な存在感を世界に誇示している。中国という国の危険さを、世界の主なリーダー達に知らしめた安倍総理の功績は大きいと思うが、その安倍総理亡き後、ウクライナ戦争はより混迷を極め、ロシアと中国は接近し、日本にとって極めて厳しい周辺状勢となってきた。

 非常識な意見が堂々と真中を罷り通る昨今

 こうしたコロナ禍、ウクライナ戦争と続く世界状勢の下、グローバリズムの流れが激しくなってきている。グローバリズムは一見、美しい姿を纏っているが、根は共産主義に近く、一つの方向へ集約させようという動きだと思う。グローバリズムの行き着く先は、根なし草、混乱、虚無、人間としてのアイデンティティーの喪失しかないように思えるのだが。国家意識をなくして、より個人になり、全体より個、多数より少数、普通より特別等々、これらの関係が、程良いバランスで成り立っていた社会が、近頃、片側にばかりスポットが浴びせられ、普通や常識が肩身の狭い思いをしている。非常識な自分の都合を声高に主張する人達に、メディアや立場のある人達が迎合し、非常識な意見が堂々と真中を罷り通っている昨今である。日本人はいつからこんな情けない国民になってしまったのか。互いの立場を思いやるのが日本人だったはずなのに。

 この風潮に乗った最近の一番の出来事が、「LGBT理解促進法」の成立だ。今回のLGBT法案の成立には驚くほかはないが、この法案化は、野党の一部を中心に七年にわたる議論や立法化への動きがあって、確か安倍総理存命中は、そういう動きを自民党保守議員が押さえていた経緯がある。ところが、安倍総理亡き後、今年に入って急なスピードで、しかも保守系と見られていた議員が先導して、多くの党内反対意見を無視する形で成立させてしまった。リードした関係議員の言い訳は、急進的な野党案を自民党が引きとって、かなり手を入れて、保守層や一般の国民が素朴に抱く危惧や疑問に応える形に文言を修正して成立させたとしている。しかし。そういう言い訳以前に、あのアメリカでさえ、連邦レベルでは、問題ありとして、慎重な態度をとり、法案化はされていない中で、なぜ日本が、世界に先駆けて成立させなければならなかったのか、大いなる疑問と違和感が残る。岸田総理の真意を聞きたいところである。

LGBTに関する法制化の流れは、むしろ、地方レベルで先行していて、東京都を始めとして、全国五十の自治体で、性的指向、性自認に基づく差別的取扱い禁止の条例を作っている。その流れの速さに驚くが、この法案推進の流れは、差別反対という「言葉のツール」を使って、さらにパートナーシップ制導入という婚姻制度破壊へとつながってゆく。この一連の流れは、ポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)推進と同じ根っ子にあり、長い歴史の中で培ってきた我国の伝統や文化、慣習、常識といった日本人のアイデンティティーに関わるあらゆる秩序を破壊してゆく流れとなっている。改革とは違うのである。改革とは、対象となるものの本質的なものの軸は変えずに、手法を変えることだと思うが、この一連の動きは、グローバリズムの流れに乗った、白色革命と言ってよい。武器を使わず、あらゆる分野の根本にある人間の精神、考え方を一定の方向に導いてゆく精神革命、思考統制の流れだと思っている。

 最高裁は一般の国民の常識に配慮して大所高所から判決を導くべきだ

LGBT法案が成立して一ヶ月も経っていないこの七月十一日、最高裁小法廷で、トランスジェンダーの経産省の職員による女子トイレを自由に使わせるべきと訴えた裁判に、最高裁は、これを認める判決を出してしまった。五人の裁判官が全員一致というから、何をか言わんやである。裁判官といわれる方には、一般の国民の常識に配慮して、大所高所から判決を導く方々と思っていたが、さにあらず、狭い世界に生きている方々達なのだと実感した。

二〇二二年、LGBTに関する条例を作った埼玉県で今年、基本計画案策定にあたり、パブリックコメントを実施したところ、四一七件の応募があり、その内、八割が反対意見だったという。これが、ごく普通の国民の総意だと思う。学校教育の現場で、保護者や児童、生徒の感情を無視して、行き過ぎた啓発教育にならないことを祈るのみである。かつて、東京都で行き過ぎた性教育を推進する人達と闘った経験のある私としては、いつか来た道のような同じ思想を持った人達の活動に見えて仕方がない。

 古来、キリスト教やイスラム教国のような一神教を宗教としている国々では、性に関する戒律は大変厳しく、同性愛は罪として厳罰に処せられた歴史がある。だからこそのLGBT等への動きも過激になるのだろうが、それに較べて、多神教と言える自然崇拝を信仰としてきた日本においては、この種のことは、大変おおらかに暗黙の了解があったのだろう。長い歴史の中で、程々に共存してきたのである。そういう、いわば成熟した穏やかな対応をしてきた歴史を持つ日本が、世界で最初に「LGBT理解増進法」を成立させてしまったことは、実に、日本という国柄に馴染まない出来事である。