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【論説】明治維新の原型、五代秀堯の琉球秘策

〜明治維新は沖縄の危機から始まった!〜

国際歴史論戦研究所 上席研究員 仲村覚

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■沖縄最大の危機

 今、日本は中国の急速な軍拡により、戦後最大の安全保障危機の中にあります。そして、その最前線は沖縄です。沖縄は中国による軍事的な脅威だけではなく、歴史戦の脅威にもさらされていますが、政府はそれに対して何ら手を打っていないため、日本最大の安全保障課題だと言えます。2010年の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件直後から中国では、「琉球は古来から中華民族の一員で、反米・反日の独立運動を続けている。中国はそれを支援するべきだ。」との趣旨のプロパガンダを発信し続けています。その最大の根拠が「琉球処分」という歴史観です。中国のプロパガンダ史観によると、日本は明治12年の琉球処分以来、琉球の植民地支配を続けているというのです。一方、日本では、平成18年、衆議院の鈴木宗男氏が衆議院に「政府は、一八六八年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか。明確な答弁を求める。」というに質問主意書(文書による質問)を提出し、政府の回答は、「沖縄については、いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである。」と極めて不明瞭で頼りないものでした。このような曖昧な歴史認識は沖縄を喉から手が出るほどほしい中国にとっては大変都合よいものです。

■日本民族における沖縄県設置の位置付

 ここで、琉球処分と称される沖縄県設置の位置づけを確認してみたいと思います。琉球処分といわれるとネガティブで、あたかも琉球王国が滅ぼされたというイメージを持ってしまいます。確かに、沖縄では、琉球処分は、首里城に日本軍がやってきて強制的に城を明け渡し琉球藩王だった尚泰王は東京に連れて行かれたとよくいわれます。しかし、冷静に考えてみると、城を明け渡したのは何も沖縄だけでなく全国どこの藩でも同じです。熊本城も姫路城も松本城も廃藩置県後には、藩主は城を明け渡したのです。また、藩主が上京して華族に列せられたのも同じです。現在でも島津家や徳川家の末裔の当主がご存命であるように、琉球王の末裔である第二尚使の当主もご存命です。琉球処分といっても、琉球に住んでいた人が殺されたわけでもなく、琉球王の家系が滅びたわけでもありません。そもそも明治維新による近代国家の建設とは、「家」による国家統治という封建制度から政府による近代的統治への改革でもあります。徳川家による支配がなくなると同時に、日本全国の300諸藩の藩主の家系による統治が亡くなったのと同じく、沖縄でも尚家による統治がなくなり、かわりに内務省から派遣された県令や県知事が行政を行うようになったのです。

■沖縄の危機で始まり沖縄県設置で終わった明治維新

 明治維新を日本の沖縄防衛の観点から見たときに新たな意義が見えてきます。学校の教科書や書店に並ぶ歴史書では、明治維新は1853年の黒船来航から始まり、1877年の西南の役で終わると解釈されています。そして、明治維新が終わった後の国境の確定作業として、琉球処分(沖縄県の設置)がでてきます。明治維新と沖縄県設置が別の出来事として認識され、これが「明治維新の結果、琉球王国が滅びた」という歴史観を産み、沖縄は日本の被害者だとか琉球沖縄の人々は日本の中の先住民族だとする勢力の主張を後押ししているのです。しかし、実際は、明治維新は当時の国防の要所、沖縄から始まったのです。薩摩の志士が西洋列強に対する危機感を持ったのは、1842年にアヘン戦争で清国がイギリスに負けたという情報を入手した時に始まります。その2年後、その脅威が現実のものになります。1844年、フランスの軍艦アルクメール号が来琉し強く開港を求めたからです。その頃、南京条約で清国が5つの港を西洋列強に開放したため、西洋の船が次々と琉球に現れていました。5つの港とは、広州、福州、上海、寧波、厦門です。地図で東シナ海を見てください、5つの港から日本に向かう途中に琉球、現在の沖縄があり、日本開港の拠点として最適な位置にあったのです。

その危機を最も把握し、日本の進むべき道を考えていた人物が、薩摩藩の島津斉彬です。1851年、斉彬は薩摩藩主になると富国強兵、殖産興業を推し進める洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。ペリーが浦賀に現れる2年前には、薩摩で明治維新の原型である富国強兵政策が始まっていたのです。斉彬の行った富国強兵政策の思想の原型を執筆した人物がいます。それは、島津斉彬亡きあと、薩摩の開明路線をリードした五代友厚の父、五代秀堯(ごだい・ひでたか)です。前述したアルクメール号は、1年後の大総兵船の再来港を予告して去っていったため、幕府は薩摩に警護兵の派兵を命じました。その琉球への出航を命じられた1人が琉球問題の解決方法を問い合わせ、秀堯(ひでたか)が記したのが「琉球秘策」です。それは、フランスの軍事圧力に対し薩摩藩がどのように対処するべきかを問答形式で具体的に論じたものです。その要点は、「琉球の処分は絶と和の二策を用いるべし」というものでした。様々な言い訳で開国を断るが、どうしても、断りきれない場合は、開国し、決して戦争をしてはならない。しかし、一端開国した場合は、西洋よりも強い軍事力を整えなければならないというものです。つまり、琉球処分とは琉球を滅ぼすのではなく、琉球を守るための秘策のことであり、それは「開国して富国強兵」という思想のルーツでもあり、明治維新は沖縄の危機から始まったということなのです。

■琉球大砲船

島津斉彬が琉球防衛に危機を持っていた証の船があります。それは、昇平丸です。当時大きな軍艦の製造は不可能でした。幕府は幕府諸大名の水軍力を抑止するために武家諸法度の一つと大船建造禁止令を制定していたのです。それは、日本沿岸に西欧諸国の艦船が現れるようになっても変わることがなかったのです。琉球防衛に危機感を持った斉彬は老中の阿部と相談し、琉球防衛目的として1853年、錦江湾(現在の鹿児島湾)で「琉球大砲船」を建造開始しました。それは、ペリーが浦賀に現われる3日前のことでした。斉彬は、その後、洋式船に改造し、1855年、昇平丸と改名して幕府に献上しました。島津斉彬の富国強兵政策は現在の日本にも通じるところがあります。それは、幕末においても現在においても沖縄が日本防衛の最前線であり、現在の政府には沖縄を守る力が無いということです。幕末には琉球防衛に責任を持っていた薩摩藩から開国して富国強兵という政策の思想が生まれ、倒幕した薩摩が明治政府の中枢にはいり、日本軍を建設し、富国強兵政策を全国レベルで行ったのが明治維新ということになります。 現在の日本も大東亜戦争での敗戦により、沖縄を守る力を失ってしまったため、もう一度、沖縄を守ることのできる日本に生まれ変わる改革が必須です。しかし、現在の日本にはもはや薩摩藩は存在しません。今の日本には、薩摩に変わって、沖縄防衛能力を持つ日本の再建を成し遂げる勢力の誕生が急務なのです。

参考資料 『琉球秘策』 - 口語訳