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―外国人の排斥・差別との批判は不当―

令和5年(2023年)8月

国際歴史論戦研究所 上席研究員

矢野義昭

移民問題は広範多岐にわたる問題であり、単なる人道問題ではない。当面の利益だけではなく長期的な影響、受入れ国の立場だけではなく移民の母国や国際社会への影響、移民の種類、高等人材か単純労働者か、合法か非合法かという視点も踏まえて分析すべき課題である。

 現状では、国際的に広く受け入れられている「移民」の定義は存在しない。以下では、国連の国際移住機関(International Organization for Migration: IOM)の活動のためにIOMにより定められた定義による。

IOMの定義によれば、「移民」とは「国際法などで定義されているものではなく、一国内か国境を越えるか、一時的か恒久的かに関わらず、またさまざまな理由により、本来の住居地を離れて移動する人という一般的な理解に基づく総称」であるとされている。

また、「移民」には、移住労働者のような法的分類が明確な人々や、密入国した移民のように、ある特定の移動の種類が法的に定義されている場合がある一方、法的地位や移動の方法が国際法で特に定義されていない留学生なども含まれる[i]

  なお、移民のごく一部だが、「紛争や迫害や災害など、強制的理由あるいは何らかのひげ的理由で故郷や祖国から移動を強いられる人々」がおり、そのうち国外に出る者を「難民」、国内で移動する者を「国内避難民」と称する[ii]

「難民」は、1951年難民条約の第1条で、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義されている[iii]

先進国の移民受け入れの実情とその齎す課題

生物は一般にそれぞれに限られた環境を群れ毎に棲み分けて共存を図っている。人類も同様に、各民族や部族はそれぞれの縄張りをもって限られた環境を棲み分け、相互に人々の往来や交易などを通じ交流と共存共栄を図ってきた。

人類は長い歴史の中で文明や王朝の興亡を繰り返しつつ、現在の200近い主権国家の併存体制としての人類社会を形成してきたが、その根底には、この棲み分けの知恵が生かされている。各国はそれぞれが固有の歴史、伝統、文化、言語あるいは信仰を持ち、他国には替えがたいアイデンティティーを保有している。

このような主権国家の併存を否定し、国境を無くして世界統一政府を創ることが、戦争を無くし永遠平和を実現する道だとするグローバリズムの思想もある。グローバリズムによれば、国境の壁を無くし、各国が大量の移民を受入れ、人種、性別、国籍を超えた均一社会を創れば、世界全体が恒久的な共生社会を実現できるとされてきた。

IOMのWorld Migration Report 2020でも、移民が経済発展、イノベーション、統治能力向上、知識普及などに積極的役割を果たしてきたことを強調している[iv]。EUでは、移民政策を推進してきた。1995年に発効したシェンゲン協定によって、EU市民であるかEU域外の外国人(非加盟国籍者)であるかに関わらず旅券検査などの出入国審査(域内国境管理)が廃止され、また、対外的には、シェンゲン協定加盟国共通の短期滞在査証(ビザ)が発効される共通ビザ政策がとられている[v]

特に少子高齢化社会を迎える日本のような社会では、人口減少を食い止めるためにも、移民の中でも「必要な外国人材」を受け入れることが必要とされてきた。

日本でも、2020年7月の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議の資料に、「今後、新型コロナウイルス感染症が収束した後には、経済情勢の好転や来日する外国人が急激に増加することが見込まれることから、必要な外国人材を円滑に受け入れられるよう、引き続き外国人材の受入れ環境整備に全力で取り組んでいく必要がある」とされている。その背景には、日本として、今後長期にわたり「必要な外国人材」を積極的に受け入れるという姿勢がある[vi]

日本も既に移民受け入れ大国になっているとの見方もある。2020年時点での世界の移民の総数は2億8060万人、人口に対する比率は3.6%に上っている[vii]。日本は、公式には移民を受け入れていないが、上記のIOMの定義を踏まえ、技能実習生、留学生、不法入国者なども含めれば、2018年時点で日本は移民受け入れを行っている主要な国の中でも第4位に位置するほど多くの移民を受け入れているとみることもできる。

「日本より多い国はドイツが第1位で約138.4万人、アメリカが第2位で約109.7万人、第3位がスペインで約56万人と多くの移民を1年間で受け入れている。日本は52.0万人を2018年に受け入れているが、それ以前から毎年30万人前後の、(IMOの定義に基づく)移民を受け入れてきた。その背景には日本の人口減少などの理由が存在するが、現状として日本は世界的に見て、多くの移民を受け入れる移民大国であることは確かである」との見方もある[viii]

しかし、移民導入には、大きな問題が潜在している。

前記の難民条約第1条でも、「難民が難民ではなくなった場合の規定や、当該個人が、平和に対する犯罪、戦争犯罪及び人道に対する犯罪や、難民として避難国へ入国することが許可される前に避難国の外で重大な犯罪(政治犯罪を除く)を行った場合には、難民条約が適用されないこと」を規定している[ix]

さらに大量の不法入国者や移民が流入すると、単なる治安の悪化や失業問題という域に止まらず、流入国の低所得層と就職先を奪い合い、また賃金低下も齎すことになる。

例えば、「なぜ日本の賃金が上がらないのかというと労働力が「過剰」だからだ。2017年の労働力調査では15歳から34歳の就業者は1643万人と年を追うごとに減っている。ここだけ見れば、「貴重な労働力」なので賃金も上がっていくはずだが、そうならないのは、55歳以上の「高齢労働者」がまだあふれかえっているのと、外国人留学生と技能実習生という「短期移民」が5年前から倍に膨れ上がっているからだ」との指摘もある[x]

地域社会でも受け入れ先のコミュニティのルールを守らないこともあり、例えば環境保護などの面で地域社会に新たな負担や軋轢を強いることにもなる。ゴミ収集の規則を守らない移民への対応、イスラム移民の女性のヘジャプ着用問題などもその一例と言える。移民受け入れは、単なる人道問題ではなく、このような様々の社会的な軋轢やコストを現実に生んでいる。

EUでは2010年末チュニジアで勃発した民主化運動に端を発した「アラブの春」以降、政治・社会情勢が著しく不安定になったアフリカ・中東地域から、移民・難民が密航船でイタリア、マルタ、ギリシャ、スペイン、キプロスなどに押し寄せている[xi]

移民がさらに増えると、特定の地域や業種が移民により占められ、既存の社会から分断されることも生じる。その場合、地域の地方自治を盾に、移民社会の利益になる条例を制定し自治権を確立することになる。それが昂じると、地域の分離独立、あるいは国家の分裂や解体ももたらしかねない。内戦や騒乱になれば、そのような動きを阻止しようとする元々の居住民と移民との内戦あるいは外国勢力の介入による国家間の戦争に発展することもある。

欧州委員会の報告書によると、2060年までにEU加盟国に流入する移民の純増数は合計5,500万人になると予想されており、ほぼ70%が4カ国に向かい、イタリアへ1,550万人、英国へ920万人、ドイツへ700万人、スペインへ650万人が流入すると予測している。2060年にはEUの総人口は、5億2,300万人に増加すると予想されている[xii]

EU加盟国でもフランスはこれまで移民の受け入れに寛容だった。しかしそのフランスの人権諮問委員会が2014年4月、フランス政府に提出した「人種差別報告書」によると、フランス国民の74%が「移民は多すぎる」と考えている。また、国民の77%が「移民は社会的保護を受けるためにだけフランスに来る」と考えているという結果が出ている[xiii]

2004年、2007年のEUの「東方拡大」は、EUの共通移民政策の方向性に大きな影響を与えることとなった。その1つが、既存の加盟国と大きな経済格差のある中・東欧からの大規模の労働力の移動が起きるのではないかという強い懸念であった。つまり、かつての移民の送り出し国(ポーランドなどの中・東欧)であった新規加盟の「域内」から受入国(ドイツ、英国、フランスなど)である既存加盟の「域内」への人の移動の問題である。

もう1つのより重要な問題が、東方拡大によって、EUの境界線の東への移動による「域外」から「域内」への移民の大量流入の問題である。新規加盟した中・東欧を経由して移民希望先(ドイツ、英国などが想定される)を目指して、国境外から押し寄せてくる移民・難民に対する新規加盟国による国境管理の強化とEUレベルの共通政策の徹底によって、EU域内の「自由・安全・司法の領域」の原則が遵守されることが重要であった。というのは、EU域内の人の自由な移動は、一度必要な手続きをとり、合法的に域内に入ってきた第三国民(非加盟国籍者)に対しても認められているからである[xiv]
 2014年の欧州議会選挙では、反移民、移民排斥を最大の争点に掲げるフランスの国民戦線(FN)が、25%の支持票を獲得して第1党に躍進、英国でも反移民・移民規制を主張する英国独立党(UKIP)も第1党に躍進した。好転しない経済・雇用情勢や、移民問題に不満を募らせる世論の支持が強まっていたからである[xv]

すなわち、ルールなき大量移民の流入は、既存の国家社会の分裂や解体を齎しかねない、各国にとり人口侵略という国家安全保障上の危機を招く危険な政策である。

日本の出入国制度の課題と法改正の正当性

 以上のような移民流入に伴う課題は日本でも深刻化している。中でも最も深刻な事態は、現行の日本の出入国管理制度の抜け穴を悪用する者が増加している点である。

以下では、日本の収入国制度の現状とその課題を踏まえ、日本の出入国在留管理、特に外国人の退去強制や難民認定に関連した諸課題について、適切に対応するための法改正の取組について紹介する。

1 日本の出入国在留管理制度の概略

(1) 公正な出入国在留管理

外国人を日本の社会に適正に受け入れ、日本人と外国人が互いに尊重し、安全・安心に暮らせる共生社会を実現することは重要だが、どんな人でも入国・在留が認められるわけではない。

 例えば、テロリストや日本のルールを守らない人など、受け入れることが好ましくない外国人については、入国・在留を認めることはできない。

 そのため、日本では、法律に基づき、来日目的等を確認した上で、外国人の入国・在留を認めるかどうかを判断することとしており、入国・在留を認められた外国人は、認められた在留資格・在留期間の範囲内で活動する必要があり、その在留資格を変更したいときや、在留期間を超えて滞在したいときは、許可を受ける必要がある。

以上のように、日本では、在留資格・在留期間等の審査を通じて、外国人の出入国や在留の公正な管理に努めており、このように、その国にとって好ましくない外国人の入国・在留を認めないことは、それぞれの国の主権に属する問題であり、国際法上の確立した原則として、諸外国でも行われている[xvi]

(2)外国人の退去強制

 日本に在留する外国人の中には、ごく一部だが、他人名義の旅券を用いるなどして日本に入国した者(不法入国)、許可された在留期間を超えて日本国内に滞在している者(不法残留)、許可がないのに就労している者(不法就労) 、日本の刑法等で定める犯罪を行い、実刑判決を受けて服役する者たちがいる。これらの行為は、入管法上の退去を強制する理由となるだけでなく、犯罪として処罰の対象にもなる。

 そのようなルールに違反した外国人については、法律に定める手続によって、原則、強制的に国外に退去させることにより、日本に入国・在留する全ての外国人に日本のルールを守るよう努めている。

 ただし、退去させるかどうかの判断に際しては、ルール違反の事実のほか、個々の外国人の様々な事情を慎重に考慮しており、例外的にではあるが、本来退去しなければならない外国人であっても、家族状況等も考慮して、在留を特別に許可する場合もある(在留特別許可)。

 その許可がされなかった外国人については、原則どおり、強制的に国外に退去させることになる[xvii]

 この外国人の強制退去に関する規定及びそれらに基づきとられる措置についても、法治国家として執るべき合規適正なものであり、国内法上も国際法上も何ら問題はない。

(3)難民の認定

 日本は、1981年に「難民の地位に関する条約」(難民条約)、1982年に「難民の地位に関する議定書」に順次加入し、難民認定手続に必要な体制を整え、その後も必要な制度の見直しを行っているところである。

 日本にいる外国人から難民認定の申請があった場合には、難民であるか否かの審査を行い、難民と認定した場合、原則として定住者の在留資格を許可するなど、難民条約に基づく保護を与えている。
 難民には該当しない場合であっても、法務大臣の裁量で、人道上の配慮を理由に、日本への在留を認めることもある。

 なお、ここでいう「難民」とは、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見という難民条約で定められている5つの理由のいずれかによって、迫害を受けるおそれがある外国人のことである[xviii]

 以上の、日本政府が採っている、公正な出入国管理のための審査等の措置は、国内の治安を維持し秩序を守り、一般の日本国民の安全、財産を守るためにも、主権国家として果たすべき、必要な国境管理上の当然の義務であり権利であり、前述した『難民の地位に関する1951年の条約』第1条F項でも認められている。

日本は加入した難民条約、同議定書に基づき、必要な制度態勢を整え、制度の見直しを誠実に履行しており、難民認定の申請者に対しても、必要な保護を与えている。また例外的に難民に該当しない者についても、人道的配慮から在留を認めることもある。このように、日本は、何ら外国人や難民に対する差別的扱いはしていないことは明らかである。

2 現行入管法の課題(入管法改正の必要性)

 

前記の『出入国在留管理庁ホームページ』によれば、現行の入管法には、以下の課題が存在している。

課題➀(送還忌避問題)

 入管法に定められた退去を強制する理由(退去強制事由)に該当し、日本から退去すべきことになった外国人の多くは、そのまま退去するが、中には、退去すべきことが確定したにもかかわらず退去を拒む外国人(送還忌避者)もいる。

 その数は、令和3年12月末時点で、3,224人(令和2年12月末時点よりも121人増)に達しており、中には、日本で罪を犯し、前科を有する者もいる。3,224人中1,133人が前科を有し、うち、515人が懲役1年超の実刑前科を有する者である。

  なお、速報値ではあるが、令和4年12月末時点では、送還忌避者の数は、4,233人まで増加している(1,009人増)。

 現行法下では、次のような事情が、退去を拒む外国人を強制的に退去させる妨げとなっている。
難民認定手続中の者は送還が一律停止
 現在の入管法では、難民認定手続中の外国人は、申請の回数や理由等を問わず、また、重大な罪を犯した者やテロリスト等であっても、退去させることができない(送還停止効)。
 外国人のごく一部ではあるものの、そのことに着目し、難民認定申請を繰り返すことによって、退去を回避しようとする者がいる。

〇退去を拒む自国民の受取を拒否する国の存在
 退去を拒む外国人を強制的に退去させるときは、入国警備官が航空機に同乗して本国に連れて行き、本国政府に引き渡す必要がある。

こうした場合、その本国政府は、国際法上の確立した原則として、自国民を受け取る義務があるが、ごく一部ではあるものの、退去を拒む自国民の受取を拒否する国があり、現行法下では、退去を拒む者をそのような国に強制的に退去させる手段がない。

〇送還妨害行為による航空機への搭乗拒否
 退去を拒む外国人のごく一部には、本国に送還するための航空機の中で暴れたり、大声を上げたりする人もいる。
 そのような外国人については、他の乗客や運航の安全等を確保するため、機長の指示により搭乗拒否されるので、退去させることが物理的に不可能になる。
 1(2)でも述べたように、退去させるかどうかの判断に際しては、個々の外国人の様々な事情を慎重に考慮し、在留を認めるべき者には在留を認めており、送還忌避者は、それでもなお在留を認められない者であるので、速やかに国外に退去すべきである。なお、平成26年から令和3年までの間の在留特別許可率は約7割である。

(2)課題➁(収容を巡る諸問題)

 現行入管法では、退去すべきことが確定した外国人については、原則として、退去までの間、収容施設に収容することになっている。

 そのため、外国人が退去を拒み続け、かつ、難民認定申請を誤用・濫用するなどの事情(2(1)参照)があると、退去させることができないことにより、収容が長期化しかねない。

 収容が長期化すると、収容されている外国人の健康上の問題が生じたり、早期に収容を解除されることを求めた拒食(ハンガーストライキ)や治療拒否など、収容施設内において、様々な問題が生じる原因となりかねない。

 現行入管法下で、収容の長期化を防止するには、「仮放免」制度を活用するしかないが、この制度は、もともと、健康上の理由等がある場合に一時的に収容を解除する制度であり、逃亡等を防止する手段が十分ではない。

 そのため、仮放免された外国人が逃亡する事案も多数発生しており、令和3年12月末時点で、退去すべきことが確定した外国人で、仮放免許可後に逃亡をし、当局から手配中の者は、599人(令和2年12月末時点と比べて184人増)となっている。

 なお、速報値だが、令和4年12月末時点では、その数は、1,410人まで増加している(令和3年12月末時点と比べて811人増)。

(3)課題➂(紛争避難民などを確実に保護する制度が不十分)

 難民条約上、「難民」に該当するには、➀人種、➁宗教、➂国籍、➃特定の社会的集団の構成員であること、➄政治的意見のいずれかの理由により迫害を受けるおそれがあることが必要となる。

 しかし、紛争避難民は、迫害を受けるおそれがある理由が、この5つの理由に必ずしも該当せず、条約上の「難民」に該当しない場合がある。

 現在の入管法では、こうした条約上の「難民」ではないものの、「難民」に準じて保護すべき紛争避難民などを確実に保護する制度がない。

 そのため、例えば、我が国では、令和4年3月以降、令和5年2月末までの間に、2,300人余りのウクライナ避難民を受け入れているところ、現状は、人道上の配慮に基づく緊急措置として、法務大臣の裁量により保護している状況にあり、こうした紛争避難民などを一層確実に保護する制度の創設が課題となっている[xix]

  以上の現行法制上の諸課題は、いずれも本来の法制定時には予測されていなかった課題であり、法規を改正し、その課題を防止する措置を講じなければならない。これは法治国家として当然の措置であり、外国人をことさらに差別するものではない。

特に③の課題は人道上の配慮に基づくものであり、むしろ紛争国からの難民受け入れ枠の拡大のための措置である。

3 入管法改正の基本的な考え方

 今回の入管法改正案の基本的な考え方は、次の3つである。

➀ 保護すべき者を確実に保護する。
➁ その上で、在留が認められない外国人は、速やかに退去させる。
➂ 退去までの間も、不必要な収容はせず、収容する場合には適正な処遇を実施する。

 これらの基本的な考え方に基づき、様々な施策をパッケージとして講じることにより、現行法の課題の一体的解決を図ることを目的としている。

4 入管法改正案の概要等

今回の改正案では、3項の3つの基本的な考え方を実行に移すために、次の(1)(2)(3)に示す様々な方策を講じることとしている。

(1)保護すべき者を確実に保護する。

➀ 補完的保護対象者の認定制度を設ける。

 紛争避難民など、難民条約上の難民ではないものの、難民に準じて保護すべき外国人を「補完的保護対象者」として認定し、保護する手続を設ける。

 補完的保護対象者と認定された者は、難民と同様に安定した在留資格(定住者)で在留できるようにする。

➁ 在留特別許可の手続を一層適切なものにする。

 在留特別許可の申請手続を創設する。在留特別許可の判断に当たって考慮する事情を法律上明確化する。在留特別許可がされなかった場合は、その理由を通知する。

➂ 難民認定制度の運用を一層適切なものする。
  法改正事項ではないが、次のような取組を通じて、難民認定制度の運用を一層適切なものにする。

  • 難民の定義をより分かりやすくする取組
      難民条約上の難民の定義には、「迫害」等、そのままでは必ずしも具体的意義が明らかではない文言も含まれている。そこで、これまでの日本における実務上の先例や裁判例を踏まえ、UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)発行の文書や諸外国の公表する文書なども参考にしながら、こうした文言の意義について、より具体的に説明するとともに、判断に当たって考慮すべきポイントを整理する取組みを進める。
  • 難民の出身国情報を一層充実する取組
     難民に当たるかどうかを判断する上で必要となる申請者の出身国情報(本国情勢等)を充実させるため、UNHCR等の関係機関と連携して、一層積極的に収集する。

・ 職員の調査能力向上のための取組

難民に当たるかどうかの調査を行う当庁職員(難民調査官)に対して、出身情報の活用方法や調査の方法等に関する研修を行うことなどにより、一層調査能力を高めていく。

(2)送還忌避問題の解決

➀ 難民認定手続中の送還停止効に例外を設ける。

 難民認定手続中は一律に送還が停止される現行入管法の規定(送還停止効)を改め、次の者については、難民認定手続中であっても退去させることを可能にする。
■3回目以降の難民認定申請者
■3年以上の実刑に処された者
■テロリスト等

 ただし、3回目以降の難民認定申請者でも、難民や補完的保護対象者と認定すべき「相当の理由がある資料」を提出すれば、いわば例外の例外として、送還は停止することとする。

➁ 強制的に退去させる手段がない外国人に退去を命令する制度を設ける。

 退去を拒む外国人のうち、次の者については、強制的に退去させる手段がなく、現行法下では退去させることができないので、これらの者に限って、一定の要件の下で、定めた期限内に日本から退去することを命令する制度を設ける。
■退去を拒む自国民を受け取らない国を送還先とする者
■ 過去に実際に航空機内で送還妨害行為に及んだ者

 罰則を設け、命令に従わなかった場合には、刑事罰を科されうるとすることで、退去を拒む上記の者に、自ら帰国するように促す。

 そもそも命令の対象を必要最小限に限定しており、送還忌避者一般を処罰するものではない。

➂ 退去すべき外国人に自発的な帰国を促すための措置を講じる。

 退去すべき外国人のうち一定の要件に当てはまる者については、日本からの退去後、再び日本に入国できるようになるまでの期間(上陸拒否期間)を短縮する。

 これにより、より多くの退去すべき外国人に、自発的に帰国するよう促す。

(3)収容を巡る諸問題の解決

➀ 収容に代わる「監理措置」制度を設ける。

 親族や知人など、本人の監督等を承諾している者を「監理人」として選び、その監理の下で、逃亡等を防止しつつ、収容しないで退去強制手続を進める「監理措置」制度を設ける。

 「原則収容」である現行入管法の規定を改め、個別事案ごとに、逃亡等のおそれの程度に加え、本人が受ける不利益の程度も考慮した上で、収容の要否を見極めて収容か監理措置かを判断することとする。

 監理措置に付された本人や監理人には、必要な事項の届出や報告を求めるが、監理人の負担が重くなりすぎないように、監理人の義務については限定的にする。

 収容の長期化を防止するため、収容されている者については、3か月ごとに必要に応じ収容の要否を見直し、収容の必要がない者は監理措置に移行する仕組みを導入する。

 現行の入管制度は、「全件収容主義」などと言われることがありますが、改正法では、上記のように、個別事案ごとに収容か監理措置かを選択することとなり、これにより、「全件収容主義」は抜本的に改められることとなる。

➁ 仮放免制度の在り方を見直す。

 監理措置制度の創設に伴い、仮放免制度については、本来の制度趣旨どおり、健康上又は人道上の理由等により収容を一時的に解除する措置とし、監理措置との使い分けを明確にする。

 特に健康上の理由による仮放免請求については、医師の意見を聴くなどして、健康状態に配慮すべきことを法律上明記する。

➂ 収容施設における適正な処遇の実施を確保するための措置を講じる。

 常勤医師を確保するため、その支障となっている国家公務員法の規定について特例を設け、兼業要件などを緩和する。

 その他、収容されている者に対し、3か月ごとに健康診断を実施することや、職員に人権研修を実施することなど、収容施設内における適正な処遇の実施の確保のために必要な規定を整備する[xx]

今回の日本の出入国管理法改正案は、悪用されがちな規定を改め、本来の目的を達するための正当かつ公正な法改正であり、一部の不法入国者の訴えるような、不法入国者や外国人に対する人権抑圧の措置ではないことは明白である。

不法入国者の引き起こす問題はそれだけではない。大量の不法入国者たちの背後には、彼らの不法入国を手引きする犯罪組織が存在する。彼らは法外の金銭を要求し不法入国を扇動するため、不法入国者は多額の借金を抱えていることが多い。このため、手段を択ばず入国し借金返済に宛てねばならない立場にある。しかも、不法入国者のため、入国先の国家の保護も母国の保護も受けられず、犯罪者に脅されても訴えるすべもない。

結果的に不法入国を手引きした犯罪組織の手先となり、麻薬密売、人身売買、武器密輸、売春などの組織犯罪の手先となることもあれば、幼少者は人身売買の犠牲になることが多い。このように、不法移民は移民そのものに対し深刻な人権侵害を招いているだけではなく、麻薬密売、人身売買などの組織犯罪集団にとり巨額の闇資金源にもなっている。

以上の観点から見て、不法移民に対し厳正な審査を行い、基本的に受け入れを容認しないことが最善の選択と思われる。

日本政府が今回行う出入国管理法の改正は、『難民の地位に関する1951年の条約』第1条F項に基づく、国際法上認められた主権国家としての条約上の正当な権利である。

また、国内の治安と秩序を守り国民の安全と財産を保護するため法治国家として果たすべき当然の責務を行使するものであり、一部の者や団体が主張するような、外国人あるいはその一部の不法入国者等を不当に差別しあるいは抑圧する措置との非難は当たらないのは明らかである。


[i] 移住(人の移動)について | IOM Japan 国際移住機関 日本(2023年8月7日付のIOM Japanの回答)。

[ii] IOM, World Migration Report 2020, June 1, 2020, p. 19.

[iii] 難民条約について – UNHCR Japan as of August 7, 2023.

[iv] IOM, World Migration Report 2020, Chapter 6-7.

[v] 大量の移民流入、連鎖する反移民に苦慮する欧州―内政を不安定にするリスクの高まり― - 一般財団法人国際貿易投資研究所(ITI)、2023年8月8日アクセス。

[vi] 劉洋「日本に長期居住する外国人と日本人との格差:失業率に着目した考察」『新春特別コラム』独立行政法人経済産業研究所、RIETI - 日本に長期居住する外国人と日本人との格差:失業率に着目した考察、2023年8月8日アクセス。

[vii] International Data | Migration data portal as of August 7, 2023.

[viii] 日本は移民大国?人口の減少と外国人労働者 (gooddo.jp)、2023年8月7日アクセス。移民の定義の出典は、OECD, International Migration Outlook 2020.

[ix] 『難民の地位に関する1951年の条約』第1条F項。

[x] だから「移民」を受け入れてはいけない、これだけの理由:スピン経済の歩き方(6/7 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン、2023年8月7日アクセス。

[xi] 大量の移民流入、連鎖する反移民に苦慮する欧州―内政を不安定にするリスクの高まり― - 一般財団法人国際貿易投資研究所(ITI)、2023年8月7日アクセス。

[xii] Financial Times (December8,2014).

[xiii] 田中友義「変わるフランス人の『人権・平等』意識、揺らぐ政府・EUへの信頼感-反移民・反EUポピュリズムに共感する世論-」(『フラッシュNo. 205』2014年9月10日)。

[xiv] 正躰朝香「 移民政策のヨーロッパ化―EUにおける出入国管理と移民の社会統合をめぐって」(世界問題研究所紀要、京都産業大学、第28巻、2013年2月号)、175ページ。

[xv] 田中友義「反移民・反EUポピュリスト政党躍進の経済的・社会的背景-欧州議会選挙とフランスの事例からの検証-」(『季刊国際貿易と投資』国際貿易投資研究所、2014年秋号、No.97)75~91ページ。

[xvi] 『出入国在留管理庁ホームページ』、入管法改正案について | 出入国在留管理庁 (moj.go.jp)、2023年8月7日アクセス。

[xvii] 同上。

[xviii] 同上。

[xix] 同上。

[xx] 同上。

International Research Institute for Controversial Histories
Researcher

Haruka Ikeda

Japanese Version

Introduction

On April 3 and 24, 2023, at the House of Councilors Committee on Audit, regarding the so-called Nanjing Incident, Councilor Wada Masamune asked Foreign Minister Hayashi Yoshimasa about the grounds for the Government’s view posted on the website of the Japanese Minister of Foreign Affairs: “The Japanese Government thinks it undeniable that after the Japanese Army entered the city of Nanjing in 1937, there occurred murders and acts of blunder against non-combatants.” Consequently, Minister Hayashi’s answer revealed that there were no evidential documents on which the Government relied for its official view. According to Ara Kenichi, researcher on the Nanjing Incident, it was in 1982 that the Foreign Ministry came to admit the occurrence of the alleged Nanjing Incident. This decision was probably made, catering to the external pressure and public opinion amid the fading memory of the battleground.

Now, let us examine the ground on which the common theory that “there was Nanjing Incident” is based. The Nanjing Incident is believed to have really taken place primarily because of the third-party witnesses to the effect. At that time, those who condemned the Nanjing Incident through various media were Europeans and Americans staying in Nanjing, and at the Tokyo Trials held after the War, the most powerful claims that the Nanjing Incident did happen were statements by the assumingly neutral third-party Europeans and Americans. After the War, those Chinese who suddenly came forth in their old age claiming to be victims associated themselves with the European and American records and asserted the authenticity of their own statements.

In such a verification process of the Nanjing Incident, although statements made by Europeans and Americans who were there in Nanjing at that time were decisively important, the studies on the nature of those statements are surprisingly few. So, this paper confirms the origin of those third-party statements based on the European and American documents at the time and indicates that those original sources were American missionaries who remained in Nanjing and clarifies those missionaries’ activities, intentions and backgrounds.

Hopefully, this paper will reveal the hidden truth of the Nanjing Incident and fundamental errors of the common theory and the Japanese Government’s view.

  1. Examination of the original disseminators of the Nanjing Incident   
  2. Who were the third party remaining in Nanjing?

First, let us confirm the third party (Europeans and Americans) in Nanjing at that time.

In order to witness or examine an incident, one needs to be there on the spot. On December 13, 1937, when the Japanese Army entered the walled city of Nanjing, and for a while after that, there were 22 Europeans and Americans staying in Nanjing. Among them, there were 14 Americans (the majority group) and all of them were missionaries. Besides them, there were 5 Germans, 1 Austrian and 2 White Russians, all of whom were in Nanjing on business. Besides these businessmen, there were 2 Europeans (1 Dane and 1 Briton), who temporarily came to Nanjing and left, and they were also on business. There were five newspaper correspondents (1 Briton, 4 Americans) who left Nanjing a few days after the Japanese Army entered Nanjing. On January 6, 1938, and thereafter, diplomats from respective countries returned to Nanjing, but there were no reports of their witnessing massacres. So, the civilians mentioned above were the third party who might possibly have seen the Nanjing Incident.

  • The examination of the original disseminators

Bearing those remainders in mind, let us now examine some of the well-known disseminators of the reports and statements related to the Nanjing Incident.

  • The first news report of the Nanjing Incident

Articles written by those correspondents who left Nanjing on December 15, 1937 (The Chicago Daily News, the New York Times, etc.) are said to have been the first report. However, it is confirmed that the original source of these articles was the statement made by American missionary Miner Bates (1897-1978), through Missionary Bates’ letter.[i]

  • The theory of 20,000 victims of the massacre stated by Koo Vi Kyuin at a League of Nations conference

At a League of Nations conference in Geneva on February 2, 1938, Chinese Delegate Koo Vi Kyuin (1888-1985) quoted from the Daily Telegram and Morning Post of January 28, 1938: “The number of Chinese civilians killed by Japanese in Nanjing was supposedly twenty thousand.” To confirm the newspaper’s article, it said, “One missionary estimates the number of Chinese slaughtered at Nanjing at 20,000.” As previously mentioned, since missionaries staying in Nanjing then were all American, the original disseminator of this article was an American missionary.

  • Records of incidents by the International Committee and the Diaries of Rabe

For the protection and safety of civilians, the American missionaries established the Nanking Safety Zone and the International Committee to administer the safety zone. The records of incidents within the Safety Zone compiled by the Committee[ii] were filled with cases of atrocities committed by the Japanese military. But the Committee was under the control of the American missionaries who held the majority power among the remaining foreigners. Practically, the Committee report was disseminated by the American missionaries.

The Diaries of German John Rabe (1882-1950), who was set up as chairman of the International Committee, was published after the War.[iii] The diary contains many records of massacres committed by the Japanese Army submitted by various missionaries but no records of his own witnessing massacres. The records of massacres in Rabe’s Diary were also originally disseminated by American missionaries.

  • Statements made at the Tokyo Trials

After the War, the Nanjing Incident was examined at the Tokyo Trials. There were three Westerners who appeared in the court in person and stated that the Nanjing Incident had taken place and they were American missionaries.

With what I have stated so far, I hope it is understood that the original disseminators of the Nanjing Incident were entirely American missionaries.

  • The reason why American missionaries disseminated the Nanjing Incident to the world
  • The true purpose for the establishment of the Nanking Safety Zone

The purpose of the American missionaries who remained in Nanjing was nominally to establish the neutral and demilitarized Nanking Safety Zone for the safety and protection of the citizens. However, during a meeting held to report on the plan for establishing a safety zone, missionary Mills stated to the contrary effect: “At our meeting Mr. Mills expressed the longing that instead of having all educated people trek westward that it would be far better for a group to go down and try to encourage and comfort the Chinese army and help them to see what disorder and looting among even a small group means to China.”[iv]

Missionary Mills was the central figure (Presbyterian) among the American missionaries in Nanjing and the mastermind of the establishment of the Nanking Safety Zone.[v] Neutrality and one-sided support cannot stand together. From these words of missionary Mills, it becomes clear that the Nanking Safety Zone was established not for the protection of civilians but for the support and protection of the Chinese Army. In fact, there is record that within the Safety Zone, during battles, Chinese artillery operated[vi] and after battles, Chinese soldiers infiltrated into the safety zone and hid themselves there.[vii]

  • The Nanjing Incident to justify the Nanking Safety Zone    

From these records, supposedly, the dissemination of the Nanjing Incident by the American missionaries was part of protection and support measures for the Chinese Army. The missionaries needed to disseminate the Nanjing Incident. It was because the Nanking Safety Zone was not an officially acknowledged establishment, unlike the Shanghai Safety Zone, which was officially approved by both Japan and China.[viii]

Since the Nanking Safety Zone was dubious in terms of neutrality, the Japanese authorities did not recognize it but during battles, Japan would avoid attacking it so long as it was not militarily necessary. After the battles ceased, the unauthorized Nanking Safety Zone had no longer a reason to exist. After entering Nanjing, the Japanese Army immediately ordered the Zone to be dissolved, which the missionaries refused to follow. On the other hand, the missionaries decided to support and protect the Chinese Army within the zone as missionary Mills had stated and conveyed their intention to Huang Jen Lin (1901-1983),[ix] Chiang Kai-shek’s right-hand man. It was necessary for the missionaries to maintain the safety zone under their control in order to secretly protect Chinese soldiers in Nanjing. So, to make up a pretext for keeping the safety zone, they needed to fabricate a story of atrocities committed against citizens by the Japanese Army, namely, the dissemination of the Nanjing Incident.

We can judge whether the missionaries’ claim that the safety zone was necessary to protect citizens from the atrocities committed by the Japanese Army was reasonable or not, based on the situation after Nanking Safety Zone was dissolved. On February 4, 1938, the Japanese Army ordered the citizens within the Safety Zone to go home, and practically, the Safety Zone disappeared. On February 8, non-substantial International Committee for the Nanking Safety Zone was renamed the Nanking International Relief Committee, having the term “the safety zone” removed. If the missionaries’ claim had been right, after the Safety Zone disappeared, Nanjing would have become a worse hell. However, on March 4, 1938, Chancellor Paul Scharffenberg for the German Embassy recorded, “...we no longer hear of atrocities, and order is also being restored in general.”[x] As a matter of fact, the missionaries’ assertions were not correct.

These documents indicate that the Nanjing Incident existed only when the American missionaries supported and protected the Chinese Army in the Safety Zone. Sabotages by Chinese soldiers hiding within the Safety Zone and fictions made up by the American missionaries in order to justify the existence of the Nanking Safety Zone were all that was to the alleged Nanjing Incident.

  • The background for the creation of the Nanjing Incident

By the way, while French Catholic Father Robert Jacquinot (1878-1946), who established the Shanghai Safety Zone kept neutral, why did the American missionaries (Protestants) in Nanjing support and protect the Chinese Army? In the background, there was a resolution clearly showing the relationship between the Chinese Protestant Church and the Chinese (Chiang Kai-shek’s) government:

“Recognizing in the ideals of the New Life Movement many of the same objectives that Christians have always sought, Christians, whether individuals or church groups, be urged to co-operate in the New Life Movement program as far as possible.” (National Christian Council Biennial Meeting, May 6, 1937).[xi]

The National Christian Council is a body representing the Protestant churches in China. And the New Life Movement was substantially Chiang Kai-shek’s political activity for nation building. Therefore, this resolution stated the overall cooperation on the part of the Protestant churches in China as their consensus for the Chiang Kai-shek’s political activity in the name of the “New Life Movement.”

The slogan of the New Life Movement was the “three Life transformations,” namely, “Militarization of Life, Productivization of Life, and Aestheticization of Life [or Rationalization],” Productivization meant participation in productive activities and Aestheticization or Rationalization dealt with upbringing. However, clearly, it started with militarization which meant the movement anticipating the military mobilization of the people. In fact, after the Second Sino-Japanese War broke out, the movement included the support for the Chinese Army.

And the missionaries knew that the New Life Movement was a dangerous activity ensconcing a military element.[xii] While they recognized well the military and political colors of the movement, they resolved to totally cooperate with it. The reason was evangelical motives. The missionaries regarded Chiang Kai-shek, who had converted to Protestantism after his marriage to Soong Mei-ling and reawakened to religious worship while he was held under detention during the Xi’an Incident, as a true Christian[xiii], expecting that if Chiang Kai-shek representing the Nationalist Party Kuomintang was to rule China, a Protestant State of China would be born. Thus, they resolved to fully cooperate with the New Life Movement, which was deeply tinted with the military color. In the extension of this resolution lied the American missionaries’ support and protection of the Chinese soldiers in Nanjing.

This relationship between the resolution made by the Chinese National Christian Council and the activities by the American missionaries in the Nanking Safety Zone can be clearly explained. The previously mentioned Mr. Huang Jen Lin, Chiang Kai-shek’s right-hand man, with whom missionary Mills shared the American missionaries’ plan to support and protect the Chinese Army within the Nanking Safety Zone, was fully in charge of the New Life Movement. The fact that the American missionaries’ support was carried out as a part of the activities to support Chiang Kai-shek’s New Life Movement by Protestants was proved by the very existence of Mr. Huang Jen Lin.

4 Conclusion

The Nanjing Incident was a complete fiction created by the American missionaries. The Nanjing Incident was created by the American missionaries pretending to be the third party who under the great policy of the Protestant Church to protect Protestant Chiang Kai-shek remained in Nanjing to support the Chinese Army. China merely used it.

The true players behind the Nanjing Incident were neither Japan nor China. They were American missionaries, who have been regarded as the third party so far. This is the reason why at the time the Nanjing Incident was widely reported in the United States, fully used by the United States, the victor of World War II, during the Tokyo Trials, and the truth about it remains still unrevealed to this day.

The Japanese Government of 2023 should seriously accept the truth about the Nanjing Incident, immediately remove the view that lacks any solid grounds posted on the website of the Ministry of Foreign Affairs and show the historical truth both at home and abroad for the honor of the Japanese people.


[i] S. M. Bates, “Circular letter to friends,” April 12, 1938

[ii] “Documents of the Nanking Safety Zone” (1939), Kelly & Walsh

[iii] John Rabe, “Der gute Deutsche von Nanking” (1997), Hrsg. Erwin Wickert, VA(German)

[iv] Vautrin, “The Diary of Wilhelmina Vautrin,” November 18, 1937

[v] “Address of John Rabe at farewell party by staff of Nanking Safety Zone,” February 21, 1938

[vi] John Rabe, December 9, 1937

[vii] New York Times, January 4, 1938

[viii] “Telegram from American Embassy in Shanghai to Nanking Safety Zone Committee,” December 2, !937

[ix] Vautrin, “The Diary of Wilhelmina Vautrin,” November 18, 1937

[x] John Rabe, “Der gute Deutsche von Nanking” (1977), Hrsg, Erwin Wickert, VA(German)

[xi] “The China Christian year book 1936-37 (1937), Arthur H. Clark Company, p.77

[xii] Ronald Rees, “China Faces The Storm” (1938), Edinburgh House Press, p.61

[xiii] Ibid. Ronald Rees, p. 48

For details, refer to the book Primary Historical Sources Reveal the Truth about the Nanjing Incident, unraveling the Curse of the American Missionaries’ View of History written by Ikeda Haruka, 2020, published by Tenden-sha.

国際歴史論戦研究所 顧問 西川京子

【英訳版】https://i-rich.org/?p=1683

 

 改めて実感する安倍総理の強烈な存在感

安倍総理が凶弾に倒れてから一年が経った。その間の喪失感は、少しも薄らぐことはなく、益々、その存在の大きさを痛感する毎日である。それと連動するかのように世の中がどんどんあやしい方向に向かっているように思える。かつての安倍総理、トランプ大統領蜜月時代の世界は、大きな紛争もなく先進国の指導者達も互いに認め合い、均衡を保った世界状況が続いていたように思う。一人、中国が軍事力拡大を計り、南シナ海、東シナ海、日本周辺で侵略行動に出ていた。アメリカの対中政策がこの頃から大きく転換されて、中国という国への警戒感が、先進国の間で、急激に広がっていった。このことに関して、安倍総理の存在がいかに大きかったかを実感する毎日である。トランプ大統領との強い信頼関係の上で、安倍総理は機会があるたびに、大統領に中国という国家の危うさ、独善的政策の怖さを話したと思う。中国の拡大主義は日本を仮想敵国として着々と軍事侵攻をねらっている現状も含めて、アメリカにとってもどれだけ危険かということを告げたと思う。

 戦後、アメリカの対中政策は一貫して親中だった。共和党も含めてだ。中国は、アメリカと日本の多額の経済援助を受け続けて今日に至り、巨大な経済力と軍事力を手に入れた。中国は今や、アメリカをも凌駕しかねないモンスターとなり、強烈な存在感を世界に誇示している。中国という国の危険さを、世界の主なリーダー達に知らしめた安倍総理の功績は大きいと思うが、その安倍総理亡き後、ウクライナ戦争はより混迷を極め、ロシアと中国は接近し、日本にとって極めて厳しい周辺状勢となってきた。

 非常識な意見が堂々と真中を罷り通る昨今

 こうしたコロナ禍、ウクライナ戦争と続く世界状勢の下、グローバリズムの流れが激しくなってきている。グローバリズムは一見、美しい姿を纏っているが、根は共産主義に近く、一つの方向へ集約させようという動きだと思う。グローバリズムの行き着く先は、根なし草、混乱、虚無、人間としてのアイデンティティーの喪失しかないように思えるのだが。国家意識をなくして、より個人になり、全体より個、多数より少数、普通より特別等々、これらの関係が、程良いバランスで成り立っていた社会が、近頃、片側にばかりスポットが浴びせられ、普通や常識が肩身の狭い思いをしている。非常識な自分の都合を声高に主張する人達に、メディアや立場のある人達が迎合し、非常識な意見が堂々と真中を罷り通っている昨今である。日本人はいつからこんな情けない国民になってしまったのか。互いの立場を思いやるのが日本人だったはずなのに。

 この風潮に乗った最近の一番の出来事が、「LGBT理解促進法」の成立だ。今回のLGBT法案の成立には驚くほかはないが、この法案化は、野党の一部を中心に七年にわたる議論や立法化への動きがあって、確か安倍総理存命中は、そういう動きを自民党保守議員が押さえていた経緯がある。ところが、安倍総理亡き後、今年に入って急なスピードで、しかも保守系と見られていた議員が先導して、多くの党内反対意見を無視する形で成立させてしまった。リードした関係議員の言い訳は、急進的な野党案を自民党が引きとって、かなり手を入れて、保守層や一般の国民が素朴に抱く危惧や疑問に応える形に文言を修正して成立させたとしている。しかし。そういう言い訳以前に、あのアメリカでさえ、連邦レベルでは、問題ありとして、慎重な態度をとり、法案化はされていない中で、なぜ日本が、世界に先駆けて成立させなければならなかったのか、大いなる疑問と違和感が残る。岸田総理の真意を聞きたいところである。

LGBTに関する法制化の流れは、むしろ、地方レベルで先行していて、東京都を始めとして、全国五十の自治体で、性的指向、性自認に基づく差別的取扱い禁止の条例を作っている。その流れの速さに驚くが、この法案推進の流れは、差別反対という「言葉のツール」を使って、さらにパートナーシップ制導入という婚姻制度破壊へとつながってゆく。この一連の流れは、ポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)推進と同じ根っ子にあり、長い歴史の中で培ってきた我国の伝統や文化、慣習、常識といった日本人のアイデンティティーに関わるあらゆる秩序を破壊してゆく流れとなっている。改革とは違うのである。改革とは、対象となるものの本質的なものの軸は変えずに、手法を変えることだと思うが、この一連の動きは、グローバリズムの流れに乗った、白色革命と言ってよい。武器を使わず、あらゆる分野の根本にある人間の精神、考え方を一定の方向に導いてゆく精神革命、思考統制の流れだと思っている。

 最高裁は一般の国民の常識に配慮して大所高所から判決を導くべきだ

LGBT法案が成立して一ヶ月も経っていないこの七月十一日、最高裁小法廷で、トランスジェンダーの経産省の職員による女子トイレを自由に使わせるべきと訴えた裁判に、最高裁は、これを認める判決を出してしまった。五人の裁判官が全員一致というから、何をか言わんやである。裁判官といわれる方には、一般の国民の常識に配慮して、大所高所から判決を導く方々と思っていたが、さにあらず、狭い世界に生きている方々達なのだと実感した。

二〇二二年、LGBTに関する条例を作った埼玉県で今年、基本計画案策定にあたり、パブリックコメントを実施したところ、四一七件の応募があり、その内、八割が反対意見だったという。これが、ごく普通の国民の総意だと思う。学校教育の現場で、保護者や児童、生徒の感情を無視して、行き過ぎた啓発教育にならないことを祈るのみである。かつて、東京都で行き過ぎた性教育を推進する人達と闘った経験のある私としては、いつか来た道のような同じ思想を持った人達の活動に見えて仕方がない。

 古来、キリスト教やイスラム教国のような一神教を宗教としている国々では、性に関する戒律は大変厳しく、同性愛は罪として厳罰に処せられた歴史がある。だからこそのLGBT等への動きも過激になるのだろうが、それに較べて、多神教と言える自然崇拝を信仰としてきた日本においては、この種のことは、大変おおらかに暗黙の了解があったのだろう。長い歴史の中で、程々に共存してきたのである。そういう、いわば成熟した穏やかな対応をしてきた歴史を持つ日本が、世界で最初に「LGBT理解増進法」を成立させてしまったことは、実に、日本という国柄に馴染まない出来事である。

International Research Institute for Controversial Histories

Senior researcher

Nakamura Satoru

日本語

The biggest crisis in Okinawa

Now, Japan is facing its biggest crisis in the postwar years over the issue of the national security. And Okinawa is the main problem. Not only is Okinawa exposed to a military threat from China, but it also is the subject of a history war. However, the Japanese Government has failed to effectively cope with the grave situation. Therefore, Okinawa has become Japan’s largest national security issue. Ever since the clashing incident of a Chinese fishing vessel off the Senkaku Islands took place in 2010, China has been continuously disseminating propaganda to the effect that “Ryukyu has been a member of the Chinese nation since ancient times and now is struggling for independence against the United States and Japan, which China should support.” China’s most important  basis for the claim is the historical view of the “Ryukyu disposal.” According to the Chinese propaganda view of history, Japan has kept Okinawa under its colonial rule ever since the “disposal of Okinawa” in 1879 (the twelfth year of Meiji). On the other hand, in Japan, in 2006, Suzuki Muneo, a member of the House of Representatives, submitted a statement of inquiry to the House of Representatives: “At the time when the Japanese name of era was changed to Meiji in 1868, did the Japanese Government recognize the Ryukyu Kingdom at that time as an indivisible part of the State of Japan? We ask the Government for a clear answer.” The response of the Government was, “Regarding Okinawa, it is difficult to definitively state since when Okinawa became part of Japan. But it is certain that Okinawa was part of Japan at the latest when early in the Meiji era, the Ryukyu Domain became Okinawa Prefecture.” This is extremely ambiguous and void of trustfulness, I must say. Such an ambiguous historical view is greatly favorable to China, which desperately wants Okinawa.

The positioning of the establishment of Okinawa Prefecture among the Japanese people

Here, let us consider the position of the establishment of Okinawa Prefecture, which is termed as “Ryukyu disposal.” The term “Ryukyu disposal” may give a negative impression as if the Ryukyu Kingdom was ruined. Certainly, in Okinawa, Ryukyu disposal generally meant that the Japanese Army came to Shuri Castle and forcibly took over the castle and sent the then head of the Ryukyu Domain, King Sho Tai, to Tokyo. But to be fair, it was not Okinawa alone that had its castle taken over but the same happened at Domains all over Japan. Castles of Kumamoto, Himeji and Matsumoto followed the same fate after the decree of “Abolishing Domains and Establishing Prefectures” was proclaimed and the respective Heads of Domain turned over their castles throughout Japan. Also, after the Heads of the Domain came to Tokyo, they were treated the same way and raised to the peerage. Currently, the present heads of the Shimazu Family and the Tokugawa Family are alive and so is the present head of the Second Shu Family, the descendant of the Ryukyu King. The Ryukyu disposal does not mean that people living in Okinawa were annihilated or the lineage of Ryukyu King had perished. Essentially, the construction of a modern state by the Meiji Restoration was the transition from the feudalistic system of ruling the country by a “family” to the modern ruling by the government. The rule by the Tokugawa Family was gone and in the 300 domains throughout Japan, the rule by the family of the domain head was abolished, and equally in Okinawa, the rule by the Sho Family ceased. And instead, prefectural governors sent by the Ministry of the Interior were placed in charge of the administration throughout Japan.

The Meiji Restoration started with the crisis in Okinawa and ended with the establishment of Okinawa Prefecture

Looking at the Meiji Restoration from the perspective of Japan’s defense of Okinawa, we can find new significance. In the school history textbooks and history books on the shelves of bookstores, it is interpreted that the Meiji Restoration started with the arrival of the foreign black ships in 1853 at the end of the Edo period and ended with the Seinan Civil War in 1877, the 10th year of Meiji. And as the national border designated after the Meiji Restoration was completed, the Okinawa disposal (the establishment of Okinawa Prefecture) emerged. The Meiji Restoration and the establishment of Okinawa Prefecture were recognized as separate events, which led to the historical view that “as the result of the Meiji Restoration, the Ryukyu Kingdom perished,” and such a view supported the assertion made by a certain power that Okinawa was victimized by Japan or that people of Ryukyu-Okinawa are an indigenous people in Japan. In fact, however, the Meiji Restoration started in Okinawa, the stronghold of the national defense at that time. Patriots in the Satsuma Domain began to feel threatened by the Western Powers when they obtained information that the Chinese Qing dynasty was defeated by Britain in the Opium War in 1842. Two years later, the threat became real. In 1844, French battleship Arcmere came to Ryukyu and its crew demanded that the kingdom open its port. At that time, following the Treaty of Nanjing, the Qing opened her five ports to the Western Powers and Western ships came in a row, approaching Ryukyu. The five ports were Guangzhou, Fuzhou, Shanghai, Ningbo, and Amoy. Look at the East China Sea on the map. On the way from these five ports to Japan, there is Ryukyu (currently Okinawa), which is best situated as the base for opening Japan to the world. The man who most seriously perceived the crisis and contemplated about what path Japan should follow was Lord Shimazu Nariakira of the Satsuma Domain. As soon as Nariakira became the Lord of Satsuma in 1851, he launched the Shusei-kan enterprise of building Western-style ships, reverberatory furnaces and blast furnaces, manufacturing land mines, torpedoes, glass, gas lamps and so forth in order to build a rich and strong military country by promoting modern industries. Two years prior to Perry’s appearance off Uraga, the original framework of the policy to establish a rich and strong military state was implemented in Satsuma (presently Kagoshima), the southernmost part of Japan. The original idea was drafted by Godai Hidetaka, father of Godai Tomoatsu, who led Satsuma’s enlightenment policy after Shimazu Nariakira died. The afore-mentioned Arcmere left, predicting the reentry of a bigger battleship a year later. The Bakufu Government (Tokugawa Shogunate) ordered Satsuma to send guard soldiers to Ryukyu. A member of the personnel who were ordered to sail to Ryukyu asked how to solve the Ryukyu issue and Hidetaka wrote the “Ryukyu secret plan.” The plan specifically stated in the question-and-answer form how to cope with the French military pressure on the part of the Satsuma Domain. The gist of the plan was: in disposal of Ryukyu, implement two alternative policies of refusal and conciliation, 1) refuse to open the country, citing any thinkable excuses and 2) when refusal would not work, then open the country. But never resort to the means of war. And once Japan is opened, Japan must have more powerful military force than the Western countries. Ryukyu disposal was not a plan to destroy Ryukyu, but to protect Ryukyu. That was the root of the secret strategy--the idea of “open the country and become rich and strong military power.” Thus, the Meiji Restoration started with the crisis in Okinawa.

Ryukyu Cannon Ship

There is a ship that confirms the fact that Shimazu Nariakira felt threatened with respect to the defense of Okinawa. That was the Shohei-maru. At that time, it was impossible to build a huge military ship. The Bakufu Government prohibited the building of large ships as one of the regulations of Buke Shohatto, laws prohibiting the military families from conducting several activities  in order to keep them under control. The laws did not change even when Western battleships started to appear along the coast of the Sea of Japan. Nariakira, worrying about the defense of Ryukyu, consulted with the Shogun’s senior councilor Abe and started building the “Ryukyu cannon ship” at Kinko-wan Bay (presently Kagoshima Bay) in 1853 in order to defend Ryukyu. It was three days prior to Perry’s appearance off Uraga. Later, Nariakira remodeled the ship into a Western-style one, renamed it Shohei-maru and dedicated it to the Bakufu Government in 1855. Shimazu Nariakira’s policy of a “rich and strong military state” can be applied to the present-day Japan. As it was at the end of the Bakufu Government, at present, Okinawa is the front of Japan’s defense, and the present Government lacks the strength to protect Okinawa. At the end of the Bakufu Government, a political idea of opening the country and making it rich and militarily strong was born in the Satsuma Domain, which was held responsible for the defense of Ryukyu. Satsuma, after toppling the Edo Bakufu Government, became the center of the Meiji Government, built the Japanese Army, and implemented the policy of making the whole Japan rich and militarily strong, which was the meaning of the Meiji Restoration. Japan lost the power to protect Okinawa on her own, due to the defeat in the Greater East Asian War, and another restoration is indispensable so that Japan may be reborn to become competent enough to protect Okinawa once again. However, the Satsuma Domain does not exist anymore. Japan urgently needs to create a power capable of rebuilding the country’s capacity to defend Okinawa.

*Reference

Tha Secret Plan of Ryukyu [ Original Document ] [ Colloquial Translation ]

国際歴史論戦研究所 研究員 池田悠

【英語版】https://i-rich.org/?p=1625

はじめに

令和5年4月3日、24日に、和田政宗参議院議員が、参議院決算委員会にて、我が国の外務省HPに掲載されているいわゆる南京事件についての政府見解:「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」部分の根拠について、林芳正外務大臣に質問された。その結果、林大臣の答弁により、政府がその見解の根拠とする文書は存在しないことが明らかになった。南京事件研究家の阿羅健一によると、外務省が南京事件の実在を認めるに至ったのは昭和57年のことである。戦場の記憶が薄れる中、確たる根拠もなく外圧と世論に迎合したということであろう。

ここで「南京事件があった」という通説の根拠を確認しよう。「南京事件」が実在したと一般に信じられている一番の理由は、第三者証言によってである。当時、さまざまな媒体を通じて南京事件を告発したのは現地にいた欧米人であり、戦後東京裁判において南京事件が実在したと結論づける上で、最も有力とされたのも、第三国の中立的証人とされた欧米人の証言であった。戦後、老年になって突如現れた中国人被害者という人々も自らを当時の欧米人の記録に紐づけ、自らの訴えの正当性を主張している。

このように南京事件を検証するにおいて、現地にいた欧米人の証言が決定的に重要であるのに対し、これら第三者証言の性質についての研究は不思議と少ない。そこで本稿では当時の欧米文献により、まずこれら第三者証言の発信源を確認する。そして、これら第三者証言の発信源は実は、南京に残留したアメリカ宣教師団に集約されることを示す。その上で、彼ら宣教師たちの行動、その意図、背景を明らかにする。

本稿により、隠されていた南京事件の真実とともに、通説そして日本政府の見解の根本的な誤りをご理解いただけるものと思う。

1.南京事件の発信源の検証

(1)現地にいた第三者は誰か?

まず当時南京に居た第三者(欧米人)を確認する。事件を目撃又は検証するためには現地に居る必要がある。日本軍が南京城に入城した1937年12月13日から、しばらく南京に滞在した欧米人は22人。その中アメリカ人が14人と大多数を占めており、全員が宣教師であった。他に、ドイツ人5人、オーストリア人1人、白系ロシア人2人が残留していたが、かれらは全てビジネスパーソンであった。その他、一時的に独自に南京に出入りした欧米人が2人(デンマーク人、イギリス人)いたが、かれらもビジネスパーソンであった。また日本軍入城後2日ほどで南京を出た新聞記者が5人(イギリス1人、アメリカ4人)いた。1938年1月以降に各国の外交官が南京に戻ったが、彼らによる虐殺目撃報告はない。よって以上の民間人が南京事件を目撃した可能性のある第三者である。

(2)発信源の検証

それでは残留者を念頭に置いて、いくつか著名な南京事件の報道・証言の発信源を検証しよう。

①南京事件の初報

1937年12月15日に南京を離れた新聞記者たちの記事(シカゴ・デイリー・ニューズ、ニューヨーク・タイムズ等)が南京事件の初報と言われている。しかし、これら記事の情報源は共通して、南京残留アメリカ人宣教師のマイナー・ベイツ(1897-1978)が作成した声明であることが、ベイツ宣教師の手紙*1により確認されている。

②顧維鈞が国際連盟で訴えた2万人虐殺説

1938年2月2日、ジュネーブの国際連盟理事会にて、顧維鈞(1888-1985)中国代表が、同年1月28日付の「デイリーテレグラフ・アンド・モーニングポスト紙」を引用して、南京で2万人の市民を日本軍が虐殺したと訴えた。同新聞の記事を確認すると、 “One missionary estimates the number of Chinese slaughtered at Nanking as 20,000” とある。先に確認したように現地にいる宣教師はアメリカ人なので、アメリカ人宣教師が発信源である。

③国際委員会による事件記録・ラーベ日記

アメリカ人宣教師たちは市民保護を掲げ、南京安全区とその管理組織である国際委員会を設立した。同委員会がまとめた南京安全区の事件記録*2は日本軍による暴虐事件で溢れているが、同委員会は残留者最大勢力のアメリカ宣教師団のコントロール下にあった。実質的にこれはアメリカ宣教師団による発信である。

また、同委員会の委員長に祀り上げられたドイツ人ジョン・ラーベ(1882-1950)の日記が戦後出版されている*3。日記には様々な宣教師たちからの日本軍による虐殺報告が多々記録されているが、ラーベ氏本人の虐殺目撃記録はない。ラーベ日記の虐殺記録も、やはりアメリカ人宣教師たちが発信源なのである。

④東京裁判での証言

戦後、東京裁判で南京事件が審議されたが、実際に出廷して南京事件の実在を証言した欧米人は3人。全員がアメリカ人宣教師であった。

これらより、南京事件の発信源はアメリカ宣教師団に集約されることをご理解頂けたと思う。

2.アメリカ宣教師団が南京事件を発信した理由

(1)南京安全区設立の真の目的

 アメリカ人宣教師たちが南京に残留した理由は、名目上は市民保護の為に中立・非軍事の南京安全区を設けるためであった。しかし、安全区設立計画を報告した宣教師内部の会議で、ミルズ宣教師は別の意図を告白している。

 「私たちの会合で、ミルズ氏は強い願望を表明した。すべての教育を受けた人々を欧米に行かせる代わりに、宣教師の一団が降りて中国軍を手助けし安心を与えるよう試み、混乱と略奪の中、小集団であってもそれが中国にとっていかなる意味をもつかを彼らに知らしめた方がずっと良いと」

 “At our meeting Mr. Mills expressed the longing that instead of having all educated people trek westward that it would be far better for a group to go down and try to encourage and comfort the Chinese army and help them to see what disorder and looting among even a small group means to China.” *4

ミルズ宣教師はアメリカ宣教師団の中心人物(長老派)であり、南京安全区設立の発案者である*5。中立と一方への支援は両立できない。この発言より、南京安全区は、市民保護の為ではなく、中国軍支援保護の為に設立されたことが明らかである。実際、安全区で戦闘時は中国軍の砲台が稼働し*6、戦闘後は中国兵が安全区に武器を持って侵入潜伏した*7ことが記録に残っている。

(2)南京安全区を正当化するための南京事件

 これら記録よりアメリカ人宣教師たちの南京事件の発信は中国軍支援保護の一環であると考えられる。ただし、宣教師たちは南京事件を発信する必要があった。それは、南京安全区が、日中双方から承認された上海安全区と異なり、非公認であった*8ことに由来する。

南京安全区は中立性に疑義があったため日本側は承認せず、単に戦闘中は軍事的な必要性が無ければ攻撃を避けるとした。戦闘後は非公認であった南京安全区は存在する理由がない。日本軍は入城後すぐに解散を要求している(宣教師たちは拒否)。一方、宣教師たちは、先のミルズ宣教師の発言が示すように内部で中国軍の支援保護を決定し、それを蔣介石の腹心の黄仁霖(J.L. Huang 1901-1983)氏にも伝えていた*4。宣教師たちは南京で中国兵を匿うために、宣教師管理下にある安全区を維持する必要があった。そこでその名目を得るために、日本軍による市民への暴虐事件、すなわち南京事件を発信する必要があったのである。

日本軍の暴虐から市民を守るために安全区が必要だという宣教師たちの主張が妥当であったか否かは、安全区解散後の状況からも判定することが出来る。1938年2月4日に、日本軍は市民に帰宅命令を発し、実質的に南京安全区は消滅した。2月18日には実体のなくなった南京安全区国際委員会は、名称から安全区を外し、南京国際救済委員会へと改称した。宣教師たちの言い分が正しければ、安全区消滅後の南京は一層の地獄になるはずであった。しかし、同年3月4日にドイツ大使館のパウル・シャッフェンベルク事務長は、逆に、南京の治安が回復したと記録している*3。やはり、宣教師たちの主張は正しくない。

 これらの記録が示すのは、アメリカ宣教師団が安全区で中国軍を支援保護している時にだけ、南京事件が存在したということである。南京安全区に潜伏した中国兵による攪乱工作と、アメリカ宣教師団による南京安全区の存在を正当化するための日本軍暴虐物語の創作が、南京事件の真相であると推察される。

3.南京事件創作の背景

ところで、上海安全区を設立したフランス人カトリックのロベール・ジャキノ神父(1878-1946)は中立を保ったのに対し、なぜ南京のアメリカ宣教師団(プロテスタント)は中国軍を支援保護したのか。その背景を示す、中国のプロテスタント教会と中国(蔣介石)政府の関係を端的に示す決議がある。

「新生活運動に於ける多くの理想は、基督教徒の予ての理想と同じものであるがゆえに、基督教徒は個人たると教会の団体たるとを問わず、共に出来得る限り新生活運動に協力を要請されるものとする」

“Recognizing in the ideals of the New Life Movement many of the same objectives that Christians have always sought, Christians, whether individuals or church groups, be urged to co-operate in the New Life Movement program as far as possible.” (全国基督教連盟総会 1937/5/6 (National Christian Council Biennial Meeting, May 6, 1937))*9 

「全国基督教連盟(National Christian Council)」は、在中国のプロテスタント教会を代表する団体である。また「新生活運動(the New Life Movement)」は、実質的に蔣介石の建国政治活動である。よって、この決議は、中国のプロテスタント教会の総意として、個人・教会組織を問わず、蔣介石の建国政治活動である「新生活運動」に協力するというものである。

「新生活運動」のスローガンは国民生活の三化(軍事化・生産化・芸術化〔または合理化〕)である。生産化は生産活動への参加、芸術化〔または合理化〕は躾に類するものであるが、まず軍事化から始まることから明らかなように、これは民衆の軍事動員を見据えた運動であった。実際に日中戦争勃発後は中国軍のサポート活動も実施した。

そして宣教師たちは新生活運動が軍事要素を含む危険な運動であることを知っていた*10。彼らは運動の軍事・政治色を認識しながらも全面協力を決議したのであった。その理由は、布教上のものであった。宣教師たちは、宋美齢との結婚以来プロテスタントに改宗し、西安事件の監禁時に改めて信仰に目覚めたという蔣介石を真のキリスト者であると見なし*11、国民党を代表する蔣介石が中国を支配すればプロテスタント中国が誕生するという期待を込めて、極めて軍事色の濃い「新生活運動」への協力を決議したのである。この決議の延長に、南京でのアメリカ宣教師団による中国軍支援保護があった。

このNational Christian Councilの決議と南京のアメリカ宣教師団の行動の関係は明確に示すことができる。先にご紹介した、ミルズ宣教師がアメリカ宣教師団による南京安全区での中国軍支援保護計画を伝えた蔣介石の腹心、黄仁霖氏は、新生活運動の総責任者であった。つまり南京でのアメリカ宣教師団による中国軍支援は、プロテスタントによる蔣介石の新生活運動支援の一端としてなされたことが、この黄仁霖氏の存在により証明されるのである。

4.結語;南京事件はアメリカ宣教師団による完全なる創作 

南京事件は、プロテスタントである蔣介石を支援するというプロテスタント教会の大方針の下、中国軍支援のために南京に残留したアメリカ宣教師団が、第三者を装い創り出したものである。中国はそれを利用してきたに過ぎない。

南京事件の真の主役は、日本でも中国でもなく、これまで第三者と見做されてきたアメリカ宣教師団である。これが、南京事件の報道が当時アメリカで広がり、第二次大戦の勝者アメリカにより東京裁判で利用され、そして今まで真相が解明されなかった理由である。

令和5年の現日本政府はこの欧米の一次史料により示された、南京事件の真相を真剣に受け止め、現在、外務省HPに記載されている根拠に欠ける見解を直ちに撤回し、日本国民の名誉のため、内外に歴史の真相を示すべきである。

Note

*1 S. M. Bates, “Circular letter to friends”, April 12, 1938

*2  “Documents of the Nanking Safety Zone” (1939), Kelly & Walsh

*3  John Rabe, “Der gute Deutsche von Nanking” (1997), Hrsg. Erwin Wickert, DVA (German)

*4  Vautrin, “The Diary of Wilhelmina Vautrin”, November 18, 1937

*5  “Address of John Rabe at farewell party by staff of Nanking Safety Zone”, February 21, 1938

*6  John Rabe, December 9, 1937

*7  New York Times, January 4, 1938

*8  “Telegram from American Embassy in Shanghai to Nanking Safety Zone Committee”, December 2, 1937

*9  “The China Christian year book 1936-37” (1937), Arthur H. Clark Company, P77

*10  Ronald Rees, “China Faces The Storm” (1938), Edinburgh House Press, P61

*11  Ronald Rees, P48

注:詳しくは、池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実-アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(展転社 令和2年)を参照。

〜明治維新は沖縄の危機から始まった!〜

国際歴史論戦研究所 上席研究員 仲村覚

English Content

■沖縄最大の危機

 今、日本は中国の急速な軍拡により、戦後最大の安全保障危機の中にあります。そして、その最前線は沖縄です。沖縄は中国による軍事的な脅威だけではなく、歴史戦の脅威にもさらされていますが、政府はそれに対して何ら手を打っていないため、日本最大の安全保障課題だと言えます。2010年の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件直後から中国では、「琉球は古来から中華民族の一員で、反米・反日の独立運動を続けている。中国はそれを支援するべきだ。」との趣旨のプロパガンダを発信し続けています。その最大の根拠が「琉球処分」という歴史観です。中国のプロパガンダ史観によると、日本は明治12年の琉球処分以来、琉球の植民地支配を続けているというのです。一方、日本では、平成18年、衆議院の鈴木宗男氏が衆議院に「政府は、一八六八年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか。明確な答弁を求める。」というに質問主意書(文書による質問)を提出し、政府の回答は、「沖縄については、いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである。」と極めて不明瞭で頼りないものでした。このような曖昧な歴史認識は沖縄を喉から手が出るほどほしい中国にとっては大変都合よいものです。

■日本民族における沖縄県設置の位置付

 ここで、琉球処分と称される沖縄県設置の位置づけを確認してみたいと思います。琉球処分といわれるとネガティブで、あたかも琉球王国が滅ぼされたというイメージを持ってしまいます。確かに、沖縄では、琉球処分は、首里城に日本軍がやってきて強制的に城を明け渡し琉球藩王だった尚泰王は東京に連れて行かれたとよくいわれます。しかし、冷静に考えてみると、城を明け渡したのは何も沖縄だけでなく全国どこの藩でも同じです。熊本城も姫路城も松本城も廃藩置県後には、藩主は城を明け渡したのです。また、藩主が上京して華族に列せられたのも同じです。現在でも島津家や徳川家の末裔の当主がご存命であるように、琉球王の末裔である第二尚使の当主もご存命です。琉球処分といっても、琉球に住んでいた人が殺されたわけでもなく、琉球王の家系が滅びたわけでもありません。そもそも明治維新による近代国家の建設とは、「家」による国家統治という封建制度から政府による近代的統治への改革でもあります。徳川家による支配がなくなると同時に、日本全国の300諸藩の藩主の家系による統治が亡くなったのと同じく、沖縄でも尚家による統治がなくなり、かわりに内務省から派遣された県令や県知事が行政を行うようになったのです。

■沖縄の危機で始まり沖縄県設置で終わった明治維新

 明治維新を日本の沖縄防衛の観点から見たときに新たな意義が見えてきます。学校の教科書や書店に並ぶ歴史書では、明治維新は1853年の黒船来航から始まり、1877年の西南の役で終わると解釈されています。そして、明治維新が終わった後の国境の確定作業として、琉球処分(沖縄県の設置)がでてきます。明治維新と沖縄県設置が別の出来事として認識され、これが「明治維新の結果、琉球王国が滅びた」という歴史観を産み、沖縄は日本の被害者だとか琉球沖縄の人々は日本の中の先住民族だとする勢力の主張を後押ししているのです。しかし、実際は、明治維新は当時の国防の要所、沖縄から始まったのです。薩摩の志士が西洋列強に対する危機感を持ったのは、1842年にアヘン戦争で清国がイギリスに負けたという情報を入手した時に始まります。その2年後、その脅威が現実のものになります。1844年、フランスの軍艦アルクメール号が来琉し強く開港を求めたからです。その頃、南京条約で清国が5つの港を西洋列強に開放したため、西洋の船が次々と琉球に現れていました。5つの港とは、広州、福州、上海、寧波、厦門です。地図で東シナ海を見てください、5つの港から日本に向かう途中に琉球、現在の沖縄があり、日本開港の拠点として最適な位置にあったのです。

その危機を最も把握し、日本の進むべき道を考えていた人物が、薩摩藩の島津斉彬です。1851年、斉彬は薩摩藩主になると富国強兵、殖産興業を推し進める洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。ペリーが浦賀に現れる2年前には、薩摩で明治維新の原型である富国強兵政策が始まっていたのです。斉彬の行った富国強兵政策の思想の原型を執筆した人物がいます。それは、島津斉彬亡きあと、薩摩の開明路線をリードした五代友厚の父、五代秀堯(ごだい・ひでたか)です。前述したアルクメール号は、1年後の大総兵船の再来港を予告して去っていったため、幕府は薩摩に警護兵の派兵を命じました。その琉球への出航を命じられた1人が琉球問題の解決方法を問い合わせ、秀堯(ひでたか)が記したのが「琉球秘策」です。それは、フランスの軍事圧力に対し薩摩藩がどのように対処するべきかを問答形式で具体的に論じたものです。その要点は、「琉球の処分は絶と和の二策を用いるべし」というものでした。様々な言い訳で開国を断るが、どうしても、断りきれない場合は、開国し、決して戦争をしてはならない。しかし、一端開国した場合は、西洋よりも強い軍事力を整えなければならないというものです。つまり、琉球処分とは琉球を滅ぼすのではなく、琉球を守るための秘策のことであり、それは「開国して富国強兵」という思想のルーツでもあり、明治維新は沖縄の危機から始まったということなのです。

■琉球大砲船

島津斉彬が琉球防衛に危機を持っていた証の船があります。それは、昇平丸です。当時大きな軍艦の製造は不可能でした。幕府は幕府諸大名の水軍力を抑止するために武家諸法度の一つと大船建造禁止令を制定していたのです。それは、日本沿岸に西欧諸国の艦船が現れるようになっても変わることがなかったのです。琉球防衛に危機感を持った斉彬は老中の阿部と相談し、琉球防衛目的として1853年、錦江湾(現在の鹿児島湾)で「琉球大砲船」を建造開始しました。それは、ペリーが浦賀に現われる3日前のことでした。斉彬は、その後、洋式船に改造し、1855年、昇平丸と改名して幕府に献上しました。島津斉彬の富国強兵政策は現在の日本にも通じるところがあります。それは、幕末においても現在においても沖縄が日本防衛の最前線であり、現在の政府には沖縄を守る力が無いということです。幕末には琉球防衛に責任を持っていた薩摩藩から開国して富国強兵という政策の思想が生まれ、倒幕した薩摩が明治政府の中枢にはいり、日本軍を建設し、富国強兵政策を全国レベルで行ったのが明治維新ということになります。 現在の日本も大東亜戦争での敗戦により、沖縄を守る力を失ってしまったため、もう一度、沖縄を守ることのできる日本に生まれ変わる改革が必須です。しかし、現在の日本にはもはや薩摩藩は存在しません。今の日本には、薩摩に変わって、沖縄防衛能力を持つ日本の再建を成し遂げる勢力の誕生が急務なのです。

参考資料 『琉球秘策』 - 口語訳

【英訳版】https://i-rich.org/?p=1528

令和5年(2023)年5月

所長
山本優美子

韓国における反日の象徴であった慰安婦問題に想像もできなかった新たな動きが起こっている。多くの韓国人が信じている日本軍慰安婦についての「嘘」を「嘘だ!」と声を挙げる韓国人の登場だ。この運動には韓国人女性も多く参加している。

一方、海外では今でも「慰安婦」は「性奴隷」であり、日本軍慰安婦についての誤った認識は変わっていない。子どもたちに嘘と憎しみを植え付ける慰安婦教育も深刻な問題だ。もともと慰安婦問題に火を着けたのは日本人だ。韓国での勇気ある新しい動きと連携し、私たちの世代で慰安婦問題を終わらせなければならない。

2010年代に盛んだった海外での慰安婦像設置

海外で初めて慰安婦の記念碑が設置されたのが、2010年米国ニュージャージー州のパリセイズパーク市。地元の韓国系市民の設置運動の成果だ。翌年2011年、韓国ソウルの日本大使館前に韓国の「挺身隊問題対策協議会」(現「正義連」)によって慰安婦像が初めて設置された。この像のレプリカが海外で最初に設置されたのが2013年米国加州グレンデール市だ。これも地元の韓国系市民が主導した。現在、慰安婦像または碑は、公有地・私有地を合わせて海外では米国、カナダ、豪州、ドイツに総計で約30基も建っている。韓国内では像が140体以上[i]もあるという。

これらの碑や像が問題なのは、その碑文だ。日本軍慰安婦は「性奴隷」、「拉致・強制連行」、「少女」、「20万人又は数十万人」、「20世紀最大の人身売買」、「戦時中に殆どが殺された」などの嘘が並んでいる。

嘘を「嘘だ!」という韓国人の登場

ところが、2019年になって想像もしなかったことが起こった。嘘を「嘘だ!」と堂々と主張する韓国人が現れたのだ。韓国では7月に刊行された『反日種族主義』がベストセラーとなった。そして12月、ソウルの慰安婦像前で正義連が毎週行っている水曜デモに対抗して、韓国人による慰安婦像撤去を求める抗議運動が始まったのだ。まさか韓国人自らが像に反対して抗議の声を挙げるとは驚きであった。

金柄憲氏ら韓国市民団体の勇気ある活動

この慰安婦像撤去運動の中心の一人が、韓国国史教科書研究所所長の金柄憲氏だ。「慰安婦法廃止国民運動」、「慰安婦詐欺清算連帯」の団体を結成し、2019年以降、慰安婦像撤去を求める抗議行動を百数十回行っている。「日本軍慰安婦 三大詐欺 強制動員説! 性奴隷説! 戦争犯罪説!」と書いたプラカードを掲げて「世界中あちこちに慰安婦像を立てて何が偉いんですか!?」と声を挙げる。韓国社会でこういった主張をするのは命懸けだ。しかも、金氏らの活動は韓国内に留まらない。独ベルリン、名古屋、東京にも遠征した。像設置を計画している米フィラデルフィアへの抗議書簡、国連の委員会にも意見書を送っている。

その金柄憲氏が2021年に韓国で出版したのが『赤い水曜日 慰安婦運動30年の嘘』だ。日本語版は2022年に文藝春秋から出版された。『赤い水曜日』と『反日種族主義』の両書に共通するのは、韓国が信頼される真っ当な国になるには嘘を止めるべきという主張だ。

教科書の深刻な影響 嘘の慰安婦記述 

慰安婦問題に関して、韓国で最も深刻な問題なのは学校教科書だ。金柄憲氏は、2022年11月に東京で開催された日韓シンポジウム[ii]で次のように発表してる。

韓国では小学校から高校の教科書まで、日本軍による慰安婦の拉致・強姦・殺害などという虚偽事実を既成事実化し、広範囲に拡散・教育しています。現在、韓国の子どもたちが勉強している教科書に収録されている慰安婦の記述は全て嘘であり、友好国である日本に対する漠然とした増悪心を助長する犯罪行為です。成長する未来世代に嘘と憎悪を教えることは、日韓間の葛藤と対立の種をまくことになります。

慰安婦問題に火を着け、煽り続ける日本人

そもそも慰安婦問題に火を着け、韓国、国連、そして国際社会に広めたのは日本人だ。1992年、国連人権委員会(現在の人権理事会)で弁護士の戸塚悦朗氏が慰安婦を“思いつき”で「性奴隷」と表現した[iii]のが性奴隷話の始まりだ。

その翌年の1993年、日本弁護士連合会は国連自由権規約委員会49 セッションの対日審査会にNGO意見書『日弁連カウンターレポート 問われる日本の人権』[iv]を提出している。これが人権条約の委員会に慰安婦問題に関して提出された初めてのNGO意見書だと思われる。その意見書では、日本軍は「三光作戦(殺しつくす、奪いつくす、焼きつくす)といった無人政策」をとり、「大東亜共栄圏、アジア解放などの美名のもとに侵略」し、「強制的に植民地住民及び占領地の人々を戦争体制に兵士・軍属・従軍慰安婦等として、また軍需産業の労働力などとして動員して、大きな苦痛を与え」、「従軍慰安婦問題は、朝鮮人・中国人のみならず東南アジアの占領地域の女性及びオランダ・オーストラリアなどの民間人女性をも性的奴隷に陥れて、人道的に許されない多くの悲劇」を招いたと報告している。日本を代表する弁護士団体の意見書だ。誰が嘘だと思うだろうか。

それから30年近く経った2022年10月、私は同じ自由権規約委員会136セッションの対日審査会に参加した。そこでは今でも日本人が「慰安婦は日本軍性奴隷」であると主張し、「教科書から記述を削除し、慰安婦像を撤去しようとして歴史を否定しようとする人たち」を非難していた。慰安婦問題に火を着けた日本人は、今でも「慰安婦=性奴隷」話を煽り続けているのだ。

未来を担う世代のために 慰安婦問題に終止符を

金柄憲氏は2021年1月にソウルで開催された韓国保守大演説会で、演説をこのように締めくくった。

30年間一貫して嘘をつき続けた正義連がこの地から消える日には、この地に正義が正しく立つであろうし、破綻寸前にまで至った韓日関係が回復し、ひいては韓日関係は鉄壁のように強固になることを確信します。 その日のために私たち皆で力を合わせましょう。 大韓民国の未来は私たち皆の手にかかっています。[v]

日韓関係が拗れる原因の一つとなった慰安婦問題。この慰安婦問題に関する歪曲と捏造を取り除くために戦っている勇気ある韓国人がいるのだ。金柄憲氏らの勇気ある行動に比べ、日本人でありながら祖国を貶める行為に嬉々として励む、彼らの卑屈さに怒りを禁じ得ない。先人に対しても、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。

日韓で力を合わせて「慰安婦=性奴隷」の「嘘」に終止符を打たなければならない。それが未来を担う子供たちのため、私たち世代の責任だと信じる。具体的な取り組みとしては、金柄憲氏ら韓国市民団体の活動の応援、日韓合同の研究や声明の発表、国際シンポジウムの国内外での開催、連携しての対国連活動を行っていきたいと考えている。

以上


[i] 産経ニュース 2021/12/13

慰安婦像、10年で160体に 韓国では国内対立も

https://www.sankei.com/article/20211213-NMKYUMBBGFIXBFUWU3SBZLVLGQ/

[ii] 「 慰安婦問題を巡る 日韓合同シンポジウム 」資料

令和4年11月16日 東京文京シビックスカイホール 国際歴史論戦研究所主催

https://i-rich.org/wp-content/uploads/2022/11/2022.11.16_Symposium.pdf

[iii] 『国連が世界に広めた「慰安婦=性奴隷」の嘘―ジュネーブ国連派遣団報告』 自由社2016/5/29

[iv] 自由権規約 (第3回に対するカウンターレポート

『日弁連カウンターレポート 問われる日本の人権』

日本弁護士連合会編著  こうち書房発行(発売桐書房) 1993

https://www.nichibenren.or.jp/activity/international/library/human_rights/liberty_report-3rd_jfba.html

[v] 金柄憲氏「正義記憶連帯が消えさってこそ韓日関係が回復する」韓国保守大演説会

http://nadesiko-action.org/?p=17750

令和5年(2023)年4月

上席研究員
松木國俊

【英訳版】https://i-rich.org/?p=1476

 3月16日の岸田首相・尹錫悦大統領の会談において、岸田首相は韓国最高裁判所の日本企業への賠償命令を韓国政府傘下の財団が「肩代わり」するという韓国政府の解決策を「両国関係を発展させる」として歓迎した。その上で「韓国に謝罪した日本政府の歴史認識を踏襲する」とまで韓国側に伝えている。徴用工問題をいつまでも放置せず、また、日本側に直接に負担を求めなかったことにおいて尹大統領の努力を認める向きもあるが、しかし今回の解決策は法論理的に考えて、依然として何ら根本的な解決になっておらず、日本の将来に向けて重大な禍根を残す、日本外交の失態であると言わざるをえない。以下その理由を述べる。

「肩代わり解決策」とは、韓国の最高裁判所が日本企業に命じた被害者への補償金支払いを、政治的判断によってとりあえず韓国財団が立て替え払いするというものである。

だが同様の「徴用工裁判」は日本でも行われており、日本の最高裁判所は被告企業に補償責任がないとの最終判断を下し、原告の訴えを棄却している。本来補償責任がない日本企業が韓国の財団に補償金を「肩代わり」してもらう必要など全くないのだ。

にもかかわらず日本政府が韓国の財団による「立て替え払い」を受け入れてしまうならば、日本企業に補償責任があることを日本政府が認めたことになる。日本の最高裁判所の判決よりも韓国最高裁判所の判決を優先したことになり、日本の「主権放棄」以外の何物でもない。

 さらにこの「肩代わり解決策」自体、実現性が極めて低い代物であると言わざるを得ない。尹錫悦大統領がいくら「日本への求償権行使は想定していない」と言っても、「肩代わり」である以上「求償権」そのものは残っており、「求償権の放棄」まで尹錫悦大統領が言及していない点が極めて重要である。

既に元徴用工と自称して日本企業を訴えている原告15人の内5人は財団からの補償金受取を拒否する宣言をしており、去る3月24日には三菱重工の特許権差し押さえと現金化を求める裁判が新たに起こされている。だが韓国政府には裁判所の判決に基づく被告企業の資産現金化を強制的に阻止できる法的根拠がない。日韓トップ会談直後に行われた韓国の世論調査でも、今回の解決策に53%の国民が明確に反対しており、尹錫悦政権が韓国内の根強い反対世論を押し切って、政府の方針に従うよう原告を説得できる見込みは薄い。

慰安婦合意の場合も同じであるが、韓国は国家間の合意よりも世論が優先する非近代的「情治国家」であり、「被害者の了解が得られない」という理由で今回の「肩代わり解決策」そのものが撤回され、再び日本企業に謝罪と賠償を求めてくる公算が大である。

事実、韓国最大野党の党首である李在明氏も政権が代われば求償権を行使すると表明しており、一体これがなぜこれが「解決策」になるのか疑問を持たざるをえない。

首脳会談で岸田首相が「韓国に謝罪した歴代内閣の歴史認識を引き継ぐ」と発言したことも大きな誤りである。徴用工問題は純粋に韓国の国内問題であり、日本の首相が「謝罪を引き継ぐこと」を表明すべき筋合いは全くない。そればかりか安易な謝罪は「日本統治は不法な植民地支配」という韓国独自の歪んだ歴史観に正当性を与える結果を生むことになる。

この「肩代わり解決案」が撤回されて振り出しにもどった場合、後に残るのは日本統治が「不法な植民地支配」だったとする韓国の最高裁判所の判決を日本政府が一端受け入れたという事実。そして日本政府が過去の謝罪を踏襲すると確約したという事実だけである。日本外交の敗北ではないか。

日本による統治が「不法な植民地支配」であったならば、同時代のあらゆることが訴訟の対象となる。朝鮮総督府が徴収した税金も日本企業が上げた利益も全て「不法な搾取」となり、法論理的に対日訴訟の対象となる。しかも韓国の裁判所が有罪判決を下せば、その効力が日本国内にも及ぶとなれば韓国側のやりたい放題であり、訴訟の嵐となるだろう。日韓関係は破綻し、結局共倒れとなるに違いない。

そのような破局に向かわぬよう、日本政府は葛藤を恐れず、韓国の歴史認識の誤りを真正面から論破して彼らの歴史観を糺し、日韓の間に対等で正常な関係を築かねばならない。「日韓併合」は国際法に則って日本と大韓帝国が一つの国になったものであり、断じて不法な植民地支配ではない。両国の請求権についても1965年に両国政府が締結した「日韓請求権・経済協力協定」によって「完全かつ最終的」に解決している。これらの真実を世界に向かって堂々とアピールし、韓国側に受け入れさせねばならない。

さらに韓国の司法判断が日本に及ぶことがあってはならず、日本政府は韓国の最高裁判所の判決は日本との国際条約を反故にするものであって、日本政府は決して受け入れられないこと。徴用工問題は統治行為論に基づき韓国国家の最終的責任者としての尹錫悦大統領の責任で韓国内において解決すべきであることを明確に韓国側に確認しておかねばならない。

そして何より岸田首相には、我々の子孫に永遠に韓国への謝罪を宿命づける歴代内閣の不正確な歴史認識を今こそ見直し、日本人の自信と誇りを取り戻してもらいたい。それこそが今回の大敗北から日本が立ち直るための「起死回生」の道なのだ。

【日本語版】https://i-rich.org/?p=1406

Kuno Jun, Guest Fellow, Associate Professor, Japan University of Economics

It has been already a year since Russia invaded Ukraine. During all this time, I have been consistently expressing my view at every opportunity as a scholar of modern history. The point in question is not to decide which side is in the right, but to use this occasion to start a serious discussion, based on history, about what we should do for the interest of our country.

Being “based on history” does not mean that we can ignore what is going on at present. Even today, the Japanese Northern Territories and the Chishima Islands (Kuril Islands) are still illegally occupied by Russia. Making things straight, let me explain that the four northern islands of Etorofu, Kunashiri, Habomai and Shikotan were unlawfully occupied by the Russian Army after the end of the Greater East Asian War. The Kuril Islands legally became Japanese territory by the treaty of exchange between Sakhalin and Kuril concluded in 1875 and South Sakhalin legally became Japanese territory, following the Portsmouth Peace Treaty in 1905. In addition to the Russian illegal invasion, the issue of the detention of Japanese prisoners of war in Siberia after World War II remains unsettled, without any apology nor compensation for the illegal detention on the part of the Soviet Union/ Russia in the postwar years. In other words, Russia has been violating Japan’s sovereignty to this day, ignoring the act of violation of Japan’s sovereignty in the not so distant past by the Soviet Union, from which Russia inherited the status as a legal state. (Further back in the past, before the modern period, there was an incident of Russian invasion (1806-07), which is not to be mentioned any further here.)

While it is natural that there are many varying views and assertions when it comes to diplomatic dealing with Russia, it goes without saying that it is indispensable to recognize the historical facts and the present situation in order to consider any realistic policy toward Russia. And in order to affirm Japan’s international position that Japan will protect its national interests from now on and will not allow Russia to commit any further oppressive acts, it is our country’s duty to inform the international community of the violation of other countries’ sovereignty on the part of Russia. We cannot help but admit that the Japanese government in the postwar years failed to make any serious efforts to convey the historical facts even domestically in Japan.

Speaking of my personal experience, at an elementary school I attended in Nara Prefecture they taught social class using a sub-textbook titled “Living in Nara Prefecture.” I clearly remember that the textbook said, “Totsukawa Village (located in Nara Prefecture) is the largest village in Japan.” Certainly, this description is right in view of the data available then about the ranking of municipal areas. In fact, however, villages like Rubetsu, Shana and Shibetoro in Etorofu Island and Yorubetsu in Kunashiri Island are bigger in area. The author of the textbook may have had no malicious intention, but the fact that textbook publishers continue to use such false description and that public education continues to use such textbooks with wrong information makes me wonder whether similar flawed approach is adequate with respect to the protection of our country’s territories. On the other hand, seen from the Soviet Union/ Russia’s perspective, such passivity may create the impression that Japan has no intention to recover its territories unlawfully occupied by another country. I came to be closely interested in the territorial issue in later years, not through school education or forced hard work for the entrance examination, but through study out of my own interest.

As of the Russian invasion of Ukraine this time, first of all, it is naturally important to stand resolutely with the international community against the violent and lawless Russian invasion. Essentially, now that Russia is in a predicament due to difficulties in winning the war and it spends huge amounts of resources in military actions, it is a good opportunity for Japan to retrieve its Northern Territories and the Kuril Islands or at least to lay the foundation for the retrieve. This may sound a little bit indiscreet. However, have peaceful measures taken at peaceful times been ever successful in moving forward the process of retrieving our land so far? Of course, the Japanese Government is not solely to blame for the failure due to its tactlessness, but another big issue is also general public’s lack of awareness or historical recognition of the situation. I do not totally deny the importance of economic aid and human exchanges. However, after all those ineffective efforts on the part of Japan, for nearly eighty years, part of Japan has been lost. Japan must be determined, once and for all, to change its thinking and tactics.

And one more thing to worry about is that there are those who loudly speak for Russia among conservatives, yet they should raise their voices to defend the national interests. In other words, some argue that President Biden is to blame for the outbreak of the Ukrainian War, criticizing political corruption and diplomatic blunders on the part of Ukraine, while putting President Putin’s aggressive acts in relative perspective. In such arguments, actors like American Deep State (Dark Government) appear often and some even seem to collaborate with speakers who usually regard prewar Japan as “evil.” Of course, such arguments did not suddenly appear last year, but there had been already prototypical believers, saying “To criticize Russia over the Northern Territories issue is exactly what the United States wants, trying to prevent Russo-Japanese cooperation.” However, I cannot help but wonder if such argument is beneficial to Japan’s national interest or it can be helpful in promoting the retrieve of the Northern Territories.

I am not pro-America at all. When I was in elementary school, I was taught by a private tutor that “the attack on Pearl Harbor might have been a plot by the United States.” Around that time, I witnessed with my own eyes incidents of the U.S. pressure on its free importing issue. Ever since then, I have been sheerly doubtful about the United States policies. And at the International Military Tribunal for Far East a.k.a. Tokyo Trials led by the United States (although it was partly influenced by a non-dominant faction of the US), many innocent Japanese were executed, which I can never forgive emotionally.

I cannot agree with either the idea of vindicating Russia or the “Deep State” theory. There is no definite proof that “it was entirely the doing of the Biden Administration from scratch,” and I don’t think it is good for the Japanese to believe such a story. As I mentioned earlier, I do not believe in the United States, but I do feel it necessary for Japan to do the minimal duty when it comes to the U.S.-Japan alliance. If not, no decent country would agree to build an alliance with Japan. Of course, through such a process (including international intelligence war), it is necessary to obtain the support of the international opinion, and there is no probability that sympathizing with Putin as things are now should lead to it.

In the modern history of our country, there always has been temptation toward an “anti-American” impulse, especially after the Soviet Union was established through the Russian Revolution. The Soviet Union and the communist power, which were the true enemies of Japan, conspired to alienate Japan from the United States for their own survival. It worked, up until the conclusion of the Anti-Comintern Pact between Japan, Germany and Italy (1937), but after signing the Tripartite Pact between Germany, Italy and Japan plus the Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941), the policy against communism was practically abandoned. The failure of the Japanese diplomacy at that time was not militarism but that Japan entered the war against the United States and Britain at the most suitable timing and following the most suitable composition for the Soviet Union, believing in the Soviet Union, a communist state. Consequently, the neutrality pact with Japan was abandoned by the Soviet Union, whom Japan expected to become arbitrator immediately before the end of the war, instead, it invaded Japanese territories without any provocation. And the Soviet aggression continued after the war officially ended. Thus, Japan’s Northern Territories remain unreturned at present. Japan of the Reiwa era must not forget the history of bitter betrayal by the Soviet Union. The issue of returning Japanese territories unlawfully occupied by Soviet Union must not be slighted. After the Greater East Asian War ended, the unit under the command of Higuchi Kiichiro of the Fifth Area Army courageously fought against the dominant Russian Army in Shumushu Island in the northernmost end of the Kuril Islands and all the surviving officers and soldiers were harshly detained in Siberia and thus saved Hokkaido through their courage and sacrifice. Japan must not nullify their gallant fight and sacrificial efforts. In the advent of the tragic invasion of Ukraine, although I am not at all hoping the conflict to last much longer nor victims’ number to further increase, we must do all that we can to solve the territorial issue, which still has not been resolved. This attempt is not Japan’s ill-willed revenge against the unlawful invasion of the Soviet Union committed 78 years ago, taking advantage of Japan’s worst predicament at that time. This is a good opportunity for Japan to make Russia, which has been historically menacing peace and to which the right opinion of the international community seems to mean nothing, recognize the right opinion, based on history, in cooperation with other countries concerned. The Japanese Government should appeal to the world for the solution of the urgent issue of returning the Japanese Northern Territories, explaining how it happened in the first place, following the Ukraine problem.

【英語版】https://i-rich.org/?p=1410

国際歴史論戦研究所ゲスト・フェロー 日本経済大学准教授 久野 潤

 ロシアがウクライナへ侵攻してから、早や1年が経った。この間、近代史研究者の一人として、私はあらゆる場で一貫して主張してきたつもりである。両国のうちどちらが正しいかという話よりも、この機会に歴史を踏まえて我が国の国益のために何をすべきかを真剣に議論すべきだと。

 「歴史を」というのは、なにも現状を無視していいという意味ではない。現状としても、我が国は自国領である北方領土や千島列島をロシアに不法占拠されたままである。念のために説明すれば、北方四島(択捉・国後・歯舞・色丹)が大東亜戦争停戦後にソ連軍により不法侵攻および占領されたものであるのに対して、千島列島は明治8年(1875)の樺太・千島交換条約により、さらに南樺太も明治38年(1905)のポーツマス条約により、合法的に日本領となったものである。その不法侵攻に加え、シベリア抑留問題についても、戦後ソ連―ロシア側から不法拘束に対して謝罪も賠償も無いままである。すなわちロシアという国は、我が国に対して現今においても主権侵害を続けており、また法的地位を継承したソ連による遠くない過去の主権侵害を頬かむりしているのである。(さらに近代以前の侵略行為である文化露寇(1806~07)などもあるが、ここでは取り上げない)

 対ロ外交についてさまざまな意見・主張はあっていいのだが、ロシアに対する現実的な政策を考えるうえで、こうした史実や現状を認識することが不可欠であることは言うまでもない。そして、我が国の将来にわたる国益を守り、彼の国のこれ以上の横暴を認めないという国際的立場を示すためにも、ロシアによる主権侵害の事実を広く国際社会に周知する義務が日本政府にはある。否、戦後の日本政府には、それを国内的にすら周知させる最低限の努力が足りていなかったと言わざるを得ない。

 個人的経験を述べると、筆者が通っていた奈良県下の小学校では、社会科の授業で教科書と併せて『奈良県のくらし』という副読本が使用されていた。今でも憶えているのは、その中で「(奈良県に所在する)十津川村は日本でいちばん大きな村」と書かれていたことである。確かに、市販のデータブックなどで市町村面積ランキングを見る限りでは、そのように見なすのも已むを得ないかもしれない。しかし実際は、択捉島内の留別(るべつ)村・紗那(しゃな)村・蘂取(しべとろ)村、そして国後島内の留夜別(るよべつ)村が十津川村よりも大きな面積を有しているのである。執筆者に悪意は無いかもしれないが、教材出版社がそのような記述を続けること、そして公教育の場でそのような記述の副読本を使用し続けることは、我が国の領土を守るという観点からは如何なものか。逆に、ソ連―ロシア側から見れば、日本側が「不法占拠されている領土を取り戻す意思はありません」と宣言しているに等しい。筆者が後に領土問題に強い関心を抱くようになったのは、学校教育や受験勉強によるものではなく、やはり独学によるものである。

 そして、今般のロシアによるウクライナ侵攻に対しては、その「深層」究明の前に、まずもってロシアの不法侵攻に対して国際社会と共に毅然たる態度をとるのが当然であろう。さらに本来であれば、ロシアがウクライナとの戦争終結に手間取り、軍事力など莫大なリソースが割かれている現状は、北方領土や千島列島を取り戻す、少なくともその布石を打つべき機会でもある。いささか不謹慎な物言いに聞こえるかもしれないが、ではこれまで平時に平和的な手段で、少しでも領土奪還のプロセスが進んだと言えるだろうか。これはもちろん、政府だけが無為無策だというのではなく、一般国民の問題意識や歴史認識にも関わる大問題である。筆者も、経済援助や人的交流を全否定するものではない。しかし、そうした日本側の努力を経ても、80年近くにわたり領土が奪われている状況が変わらないのであれば、日本側も腹をくくって考え方ややり方を変えなければならない。

 そしてもう一つ残念なのは、こうした国益を守るために声を挙げるべきいわゆる保守層の中に、少なからずロシア擁護論を唱える論客が存在することである。言い方を変えれば、ウクライナの政治腐敗や外交失策を批判し、プーチン大統領の侵略行為を相対化したうえで、戦争発生の原因をバイデン大統領などに帰する議論である。そうした議論にはしばしば、アメリカの「ディープステート」(闇の政府)なるアクターも登場し、普段は戦前の日本を「悪」と見なすような思想をもつ論者と共闘するかのような様相さえ呈している。もっとも、こうした議論は昨年から突如出現したものではなく、たとえば「北方領土問題でロシアを批判するのは、日ロ提携を妨げようとするアメリカの思うツボだ」といったプロトタイプが存在した。しかし、こうした議論が果たして日本の国益に寄与するのか、あるいは北方領土奪還を進めるうえで何かしらのステップになり得るのか。

 かく述べる筆者は、決して「親米派」ではない。小学生時分に「真珠湾攻撃はアメリカによる陰謀かもしれない」と学習塾の先生に教わり、同時期にアメリカの圧力による輸入自由化問題などを目の当たりにしてから、アメリカという国の政策には一貫して強い疑念をもっている。そして、(主流派でない勢力が策動した一面があるとはいえ)アメリカ主導による極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で無実の日本人多数が処刑されたことは心情的には断じて許せない。

 そんな筆者でも、ロシア擁護論や「ディープステート」論にはとうてい与する気にはなれない。「バイデン政権が最初からすべて仕組んでいた」という主張の確たる証拠もなければ、そのように思い込むことが日本人にとって得策でもないからである。前述のようにアメリカという国を信用しない筆者も、日米同盟について日本側も最低限の義理を果たす必要を感じている。でなければ、仮に将来日米安保条約が解消されたとして、その次にまともな国が同盟を結んでくれないのではないか。もちろん、こうした過程で(国際的な情報戦も含めて)国際世論の理解を求める必要もあるので、現今の事態でプーチンに心を寄せることがそれにつながることは無いであろう。

 我が国の近現代史においては、特にロシア革命によるソ連成立後、常に「反米」衝動への誘惑があった。日本の本当の敵であったソ連や共産主義勢力は、自らの生き残りを賭けて日米離間をけしかけた。日独伊防共協定まではよかったが、日独伊三国同盟(1937)+日ソ中立条約(1941)により防共国策が実質的に放棄されてしまった。往時の日本外交の失敗は、軍国主義などではなく、ソ連という共産主義国家を信じて、彼の国に甚だ都合のいいタイミングと構図でアメリカ・イギリスと戦端を開いてしまったことである。結果として我が国は、仲介役まで期待したソ連に終戦直前に中立条約を破棄されて一方的に侵攻され、終戦後も侵略が続き、今も領土を奪われたままなのである。

 ソ連にこれほど酷い目に遭った歴史を、令和の日本が忘却してはならない。ソ連の後継国家たるロシアに引き続き不法占領されたままの領土の奪還も、等閑に附してはならない。大東亜戦争終戦後、千島列島北端の占守島で優勢なソ連軍相手に戦い、生き残った将兵も全員シベリア抑留の憂き目を見ながら、そのことによって北海道を守った樋口季一郎第五方面軍麾下の部隊の奮戦と犠牲を無にしてはならない。今般のウクライナ問題を機会に——といっても決して紛争状態の長期化を、ましてや犠牲者の増加を望んだりする者ではないが——いまだ返還の目途も立っていない領土問題の清算を最大限に図るべきではないか。我が国の最たる窮境に乗じた78年前のソ連による不法侵略に対する、意地悪な意趣返しではない。歴史的に平和を脅かしてきた、国際社会の正論が普段通用しない相手に対して、歴史を踏まえた正論を他の関係諸国ともども認めさせる機会ではないか。すなわち、日本政府はウクライナ問題を契機として未解決の領土問題を、その生じた経緯とともに返還の要を世界に向けて訴える責務があるといえよう。