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【論説】南京事件に対する政府見解を確たる事実に基づいて改めよ

国際歴史論戦研究所 研究員 池田悠

【英語版】https://i-rich.org/?p=1625

はじめに

令和5年4月3日、24日に、和田政宗参議院議員が、参議院決算委員会にて、我が国の外務省HPに掲載されているいわゆる南京事件についての政府見解:「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」部分の根拠について、林芳正外務大臣に質問された。その結果、林大臣の答弁により、政府がその見解の根拠とする文書は存在しないことが明らかになった。南京事件研究家の阿羅健一によると、外務省が南京事件の実在を認めるに至ったのは昭和57年のことである。戦場の記憶が薄れる中、確たる根拠もなく外圧と世論に迎合したということであろう。

ここで「南京事件があった」という通説の根拠を確認しよう。「南京事件」が実在したと一般に信じられている一番の理由は、第三者証言によってである。当時、さまざまな媒体を通じて南京事件を告発したのは現地にいた欧米人であり、戦後東京裁判において南京事件が実在したと結論づける上で、最も有力とされたのも、第三国の中立的証人とされた欧米人の証言であった。戦後、老年になって突如現れた中国人被害者という人々も自らを当時の欧米人の記録に紐づけ、自らの訴えの正当性を主張している。

このように南京事件を検証するにおいて、現地にいた欧米人の証言が決定的に重要であるのに対し、これら第三者証言の性質についての研究は不思議と少ない。そこで本稿では当時の欧米文献により、まずこれら第三者証言の発信源を確認する。そして、これら第三者証言の発信源は実は、南京に残留したアメリカ宣教師団に集約されることを示す。その上で、彼ら宣教師たちの行動、その意図、背景を明らかにする。

本稿により、隠されていた南京事件の真実とともに、通説そして日本政府の見解の根本的な誤りをご理解いただけるものと思う。

1.南京事件の発信源の検証

(1)現地にいた第三者は誰か?

まず当時南京に居た第三者(欧米人)を確認する。事件を目撃又は検証するためには現地に居る必要がある。日本軍が南京城に入城した1937年12月13日から、しばらく南京に滞在した欧米人は22人。その中アメリカ人が14人と大多数を占めており、全員が宣教師であった。他に、ドイツ人5人、オーストリア人1人、白系ロシア人2人が残留していたが、かれらは全てビジネスパーソンであった。その他、一時的に独自に南京に出入りした欧米人が2人(デンマーク人、イギリス人)いたが、かれらもビジネスパーソンであった。また日本軍入城後2日ほどで南京を出た新聞記者が5人(イギリス1人、アメリカ4人)いた。1938年1月以降に各国の外交官が南京に戻ったが、彼らによる虐殺目撃報告はない。よって以上の民間人が南京事件を目撃した可能性のある第三者である。

(2)発信源の検証

それでは残留者を念頭に置いて、いくつか著名な南京事件の報道・証言の発信源を検証しよう。

①南京事件の初報

1937年12月15日に南京を離れた新聞記者たちの記事(シカゴ・デイリー・ニューズ、ニューヨーク・タイムズ等)が南京事件の初報と言われている。しかし、これら記事の情報源は共通して、南京残留アメリカ人宣教師のマイナー・ベイツ(1897-1978)が作成した声明であることが、ベイツ宣教師の手紙*1により確認されている。

②顧維鈞が国際連盟で訴えた2万人虐殺説

1938年2月2日、ジュネーブの国際連盟理事会にて、顧維鈞(1888-1985)中国代表が、同年1月28日付の「デイリーテレグラフ・アンド・モーニングポスト紙」を引用して、南京で2万人の市民を日本軍が虐殺したと訴えた。同新聞の記事を確認すると、 “One missionary estimates the number of Chinese slaughtered at Nanking as 20,000” とある。先に確認したように現地にいる宣教師はアメリカ人なので、アメリカ人宣教師が発信源である。

③国際委員会による事件記録・ラーベ日記

アメリカ人宣教師たちは市民保護を掲げ、南京安全区とその管理組織である国際委員会を設立した。同委員会がまとめた南京安全区の事件記録*2は日本軍による暴虐事件で溢れているが、同委員会は残留者最大勢力のアメリカ宣教師団のコントロール下にあった。実質的にこれはアメリカ宣教師団による発信である。

また、同委員会の委員長に祀り上げられたドイツ人ジョン・ラーベ(1882-1950)の日記が戦後出版されている*3。日記には様々な宣教師たちからの日本軍による虐殺報告が多々記録されているが、ラーベ氏本人の虐殺目撃記録はない。ラーベ日記の虐殺記録も、やはりアメリカ人宣教師たちが発信源なのである。

④東京裁判での証言

戦後、東京裁判で南京事件が審議されたが、実際に出廷して南京事件の実在を証言した欧米人は3人。全員がアメリカ人宣教師であった。

これらより、南京事件の発信源はアメリカ宣教師団に集約されることをご理解頂けたと思う。

2.アメリカ宣教師団が南京事件を発信した理由

(1)南京安全区設立の真の目的

 アメリカ人宣教師たちが南京に残留した理由は、名目上は市民保護の為に中立・非軍事の南京安全区を設けるためであった。しかし、安全区設立計画を報告した宣教師内部の会議で、ミルズ宣教師は別の意図を告白している。

 「私たちの会合で、ミルズ氏は強い願望を表明した。すべての教育を受けた人々を欧米に行かせる代わりに、宣教師の一団が降りて中国軍を手助けし安心を与えるよう試み、混乱と略奪の中、小集団であってもそれが中国にとっていかなる意味をもつかを彼らに知らしめた方がずっと良いと」

 “At our meeting Mr. Mills expressed the longing that instead of having all educated people trek westward that it would be far better for a group to go down and try to encourage and comfort the Chinese army and help them to see what disorder and looting among even a small group means to China.” *4

ミルズ宣教師はアメリカ宣教師団の中心人物(長老派)であり、南京安全区設立の発案者である*5。中立と一方への支援は両立できない。この発言より、南京安全区は、市民保護の為ではなく、中国軍支援保護の為に設立されたことが明らかである。実際、安全区で戦闘時は中国軍の砲台が稼働し*6、戦闘後は中国兵が安全区に武器を持って侵入潜伏した*7ことが記録に残っている。

(2)南京安全区を正当化するための南京事件

 これら記録よりアメリカ人宣教師たちの南京事件の発信は中国軍支援保護の一環であると考えられる。ただし、宣教師たちは南京事件を発信する必要があった。それは、南京安全区が、日中双方から承認された上海安全区と異なり、非公認であった*8ことに由来する。

南京安全区は中立性に疑義があったため日本側は承認せず、単に戦闘中は軍事的な必要性が無ければ攻撃を避けるとした。戦闘後は非公認であった南京安全区は存在する理由がない。日本軍は入城後すぐに解散を要求している(宣教師たちは拒否)。一方、宣教師たちは、先のミルズ宣教師の発言が示すように内部で中国軍の支援保護を決定し、それを蔣介石の腹心の黄仁霖(J.L. Huang 1901-1983)氏にも伝えていた*4。宣教師たちは南京で中国兵を匿うために、宣教師管理下にある安全区を維持する必要があった。そこでその名目を得るために、日本軍による市民への暴虐事件、すなわち南京事件を発信する必要があったのである。

日本軍の暴虐から市民を守るために安全区が必要だという宣教師たちの主張が妥当であったか否かは、安全区解散後の状況からも判定することが出来る。1938年2月4日に、日本軍は市民に帰宅命令を発し、実質的に南京安全区は消滅した。2月18日には実体のなくなった南京安全区国際委員会は、名称から安全区を外し、南京国際救済委員会へと改称した。宣教師たちの言い分が正しければ、安全区消滅後の南京は一層の地獄になるはずであった。しかし、同年3月4日にドイツ大使館のパウル・シャッフェンベルク事務長は、逆に、南京の治安が回復したと記録している*3。やはり、宣教師たちの主張は正しくない。

 これらの記録が示すのは、アメリカ宣教師団が安全区で中国軍を支援保護している時にだけ、南京事件が存在したということである。南京安全区に潜伏した中国兵による攪乱工作と、アメリカ宣教師団による南京安全区の存在を正当化するための日本軍暴虐物語の創作が、南京事件の真相であると推察される。

3.南京事件創作の背景

ところで、上海安全区を設立したフランス人カトリックのロベール・ジャキノ神父(1878-1946)は中立を保ったのに対し、なぜ南京のアメリカ宣教師団(プロテスタント)は中国軍を支援保護したのか。その背景を示す、中国のプロテスタント教会と中国(蔣介石)政府の関係を端的に示す決議がある。

「新生活運動に於ける多くの理想は、基督教徒の予ての理想と同じものであるがゆえに、基督教徒は個人たると教会の団体たるとを問わず、共に出来得る限り新生活運動に協力を要請されるものとする」

“Recognizing in the ideals of the New Life Movement many of the same objectives that Christians have always sought, Christians, whether individuals or church groups, be urged to co-operate in the New Life Movement program as far as possible.” (全国基督教連盟総会 1937/5/6 (National Christian Council Biennial Meeting, May 6, 1937))*9 

「全国基督教連盟(National Christian Council)」は、在中国のプロテスタント教会を代表する団体である。また「新生活運動(the New Life Movement)」は、実質的に蔣介石の建国政治活動である。よって、この決議は、中国のプロテスタント教会の総意として、個人・教会組織を問わず、蔣介石の建国政治活動である「新生活運動」に協力するというものである。

「新生活運動」のスローガンは国民生活の三化(軍事化・生産化・芸術化〔または合理化〕)である。生産化は生産活動への参加、芸術化〔または合理化〕は躾に類するものであるが、まず軍事化から始まることから明らかなように、これは民衆の軍事動員を見据えた運動であった。実際に日中戦争勃発後は中国軍のサポート活動も実施した。

そして宣教師たちは新生活運動が軍事要素を含む危険な運動であることを知っていた*10。彼らは運動の軍事・政治色を認識しながらも全面協力を決議したのであった。その理由は、布教上のものであった。宣教師たちは、宋美齢との結婚以来プロテスタントに改宗し、西安事件の監禁時に改めて信仰に目覚めたという蔣介石を真のキリスト者であると見なし*11、国民党を代表する蔣介石が中国を支配すればプロテスタント中国が誕生するという期待を込めて、極めて軍事色の濃い「新生活運動」への協力を決議したのである。この決議の延長に、南京でのアメリカ宣教師団による中国軍支援保護があった。

このNational Christian Councilの決議と南京のアメリカ宣教師団の行動の関係は明確に示すことができる。先にご紹介した、ミルズ宣教師がアメリカ宣教師団による南京安全区での中国軍支援保護計画を伝えた蔣介石の腹心、黄仁霖氏は、新生活運動の総責任者であった。つまり南京でのアメリカ宣教師団による中国軍支援は、プロテスタントによる蔣介石の新生活運動支援の一端としてなされたことが、この黄仁霖氏の存在により証明されるのである。

4.結語;南京事件はアメリカ宣教師団による完全なる創作 

南京事件は、プロテスタントである蔣介石を支援するというプロテスタント教会の大方針の下、中国軍支援のために南京に残留したアメリカ宣教師団が、第三者を装い創り出したものである。中国はそれを利用してきたに過ぎない。

南京事件の真の主役は、日本でも中国でもなく、これまで第三者と見做されてきたアメリカ宣教師団である。これが、南京事件の報道が当時アメリカで広がり、第二次大戦の勝者アメリカにより東京裁判で利用され、そして今まで真相が解明されなかった理由である。

令和5年の現日本政府はこの欧米の一次史料により示された、南京事件の真相を真剣に受け止め、現在、外務省HPに記載されている根拠に欠ける見解を直ちに撤回し、日本国民の名誉のため、内外に歴史の真相を示すべきである。

Note

*1 S. M. Bates, “Circular letter to friends”, April 12, 1938

*2  “Documents of the Nanking Safety Zone” (1939), Kelly & Walsh

*3  John Rabe, “Der gute Deutsche von Nanking” (1997), Hrsg. Erwin Wickert, DVA (German)

*4  Vautrin, “The Diary of Wilhelmina Vautrin”, November 18, 1937

*5  “Address of John Rabe at farewell party by staff of Nanking Safety Zone”, February 21, 1938

*6  John Rabe, December 9, 1937

*7  New York Times, January 4, 1938

*8  “Telegram from American Embassy in Shanghai to Nanking Safety Zone Committee”, December 2, 1937

*9  “The China Christian year book 1936-37” (1937), Arthur H. Clark Company, P77

*10  Ronald Rees, “China Faces The Storm” (1938), Edinburgh House Press, P61

*11  Ronald Rees, P48

注:詳しくは、池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実-アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(展転社 令和2年)を参照。