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日本における「法の支配」の崩壊

令和5年(2023年)10月

国際歴史論戦研究所 会長

杉原誠四郎

 欧米の文明には3つの柱があるといわれる。ギリシャ哲学とキリスト教とローマ法である。

 ローマ法に関わっては「法とは発見するものであって、つくるものではない」という法諺があるようである。つまり法とは正義を追求するものであるということである。

 中国文明のもとでは、法とは権力の掌握者が人民を支配するための道具にすぎず、権力者がいかような法をつくってもよいし、いかように適用してもよいというものである。

 欧米の法はローマ法に起源があり、究極において正義を求めるというところがある。したがって、正しいという意味のright は、「権利」の意味にもなっている。ただ、法としては観念ではないから力の裏づけが必要で、right 右手を指し、力を表している。つまり力に裏づけられた正義を指す。

 こうして欧米の法は権力者の恣意によるものではなく、その存在自体に権威があるものとして扱う。その結果、「法の支配」とか「法治主義」の観念のもとに法が包摂され、原則としてその法が現在の世界を律している。

 かくして「法の支配」のもとではさまざまな原則が生まれてくることになる。刑を科す法律を作った場合、その適用は遡って行ってはならないという不遡及の原則はよく知られている原則の1つである。

 そうした諸原則のもと、国家との関係では、司法、立法、行政の三権分立の原則が求められることになる。司法、立法、行政が適正に牽制しあって、正義、及び法秩序の安定を図るのである。

 日本は明治以来、真摯に欧米の法学を学び、「法の支配」に服することに努力し、現在は「法の支配」に完全に服す国になっている。

 が、この一、二年、「法の支配」が崩壊しつつあるのではないかという事象が現れた。

 「法の支配」の歴史的危機と呼ぶべき「法の支配」の崩壊の兆しが見えるのである。

 昨年、12月10日、旧統一教会問題でいわゆる被害者救済法、正式には「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」が制定された。

 この法律は旧統一教会の解散を求めようという喧騒のなかで制定された。が、これを「法の支配」から考えたとき、旧統一教会を解散させるためにどんなに厳しい法律を制定しても、その適用はこの法律の施行後の案件に対してだけしか適用できなのだということが、この喧騒を受けている行政府の方から発信されなかった。もしそれが早めに発信されておれば、あれほどの喧騒に陥ることはなかったのではないか。

 岸田首相は解散事由には民法も入ると一夜にして解釈を変えたが、行政府として解釈の変更は法が許容していると見られる範囲のものであるかぎり、「法の支配」のもと、そこからの逸脱ではない。が、「法の支配」の原則を指摘せず、あたかも喧騒をいっそう搔き立てるかのように解釈の変更を言い出したのは、行政府として、「法の支配」のもと、一つの逸脱である。

 国会では本年6月16日、いわゆるLGBT法、正確には「性的傾向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」を成立させた。

 「法の支配」という観点から見て、本法には立法を必要とする事由たる「立法事実」がない。そういう法的状況のもとでこのような法律を制定するというのは、これまでの大多数の国民が享受してきた秩序を崩壊させ、安定した正義、安定した法秩序を不安定にし、国民の安寧と幸福を壊すことへ導くことになる。立法としてやはり「法の支配」からの逸脱である。

最高裁は本年7月11日、性別変更に必要な性別適合手術を健康上の理由で受けておらず身体は男性のままで妻子もいるといわれる、性自認で女性であると主張する性同一性障害の経済産業省の職員に省内の全ての女性トイレを使用することを認める判決を出した。

これによって性同一障害の当該原告の主張は通り、その限りでこの当該者の権利は満たされることになるが、しかしそのことによって経済産業省の大多数の女性が享受していた平穏に女性トイレを使用する権利を侵されることになった。

経済産業省はこの当該者に特定の女子トイレを使用するよう制限したもので、女子トレノ使用の全てを禁止したものではない。

最高裁としては、当この当該者の不便の救済を直接行うことを使命としているわけではなく、大多数の女性職員の平穏に女子トイレを使用する権利を鑑みて、当該者にこのような制限を課したものであり、この制限の措置が合法の範囲のものかどうかの裁定を仰がれていたのである。特定、特殊な事情の人のために圧倒的多数が享受している秩序を壊し圧倒的大多数の法益を奪うのは法の正義に反する。

また、このような特殊の事情にある者を救済しようというのであれば、該当者全員を対象に新たな制度を作ることによって救済すべきであり、議論して新しい制度をつくって救済する以外にない。しかし議論して新しい制度をつくるのは国会の仕事である。

司法は訴訟を通じて、既存の諸法規、慣習のなかで合法か合法でないかを判定して、それによって諸法規に最終解釈権を行使するところである。

司法において、大多数の享受してきたこれまでの秩序を破壊して特定の人を救済するのは「法の支配」に悖る。

最高裁は、我が国のまさに最高の裁判所であるから、伝統的秩序の維持を大事にし、安定した国家の創造に尽くさなければならない。

以上、この一、二年、司法、立法、行政の「法の支配」の崩壊につながっているのではないか思われる案件を指摘し、「法の支配」の崩壊に警告を発するものである。 「法の支配」「法治主義」については拙著『法学の基礎理論-その法治主義構造』(協同出版 一九七三年)を参照していただきたい。