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国際歴史論戦研究所上席研究員 藤岡信勝
●2冊の新書版『南京事件』
この小論で取りあげるのは、歴史学者の笠原十九司と秦郁彦である(敬称略)。両者に共通するのは、以下のリストのように新書版で『南京事件』というタイトルの本を出版していることだ。
(1)秦郁彦『南京事件』中公新書、1986年2月
(2)笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997年11月
(3)秦育彦『南京事件 増補版』中公新書、2007年7月
(4)笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書、2025年7月
(3)と(4)はそれぞれ、(1)と(2)の増補・改訂版である。南京事件というテーマに関する、この2人の歴史家の立ち居振る舞いは、歴史学者の「研究者倫理」に照らして看過し得ない問題を含んでいる。
そもそも、中学校や高校で歴史を学び、「南京事件」ということばを知った生徒が、教科書以外の書籍で最初に手にする可能性が高いのが新書版のこの2冊である。現に、秦の初版(1)は21年間に23版を重ねるロングセラーとなり、笠原の初版(2)も10万部が売れたという。両書がこれだけの影響力をもっているとすれば、国民の歴史意識の形成の上で由々しき問題を生じることになるし、現にそうなっているとも考えられる。そうした観点から、以下、2人の歴史学者の「研究者倫理」を問うてみたい。
●天国か地獄か
笠原の1997年版の新書に次の記述がある。以下、引用文中のアンダーラインはすべて藤岡が付けた。
(A)【「クリスマスがきた。街には、いぜんとして殺戮、強姦、略奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は〝地獄の中のクリスマスだ〟と言った」とヴォートリンは日記に書いた(「ヴォートリン文書」)。】(200ページ)
ミニー・ヴォートリンはアメリカ人の女性宣教師で、金陵女子文理学院の教師であり教務主任も務めていた。日本軍による市民の大虐殺事件(南京事件)があったとされる1937年12月の南京で、彼女は多数の南京市民を難民として校舎に受け入れ、世話をしていた。そのヴォートリンが、クリスマスの日の日記にこのように書いたというのだ。
日本軍による南京陥落は12月13日。それから12日後の年末のクリスマスの日になっても、(日本軍による)「殺戮、強姦、掠奪、放火」がやまず、「恐怖」が吹き荒れている、というのは極めて疑わしい。実際には、この時期には、平民分離といって、南京の一般市民の中に潜り込んで攪乱工作をしていた敗残兵を摘発し、戦闘と関係のない一般市民に良民証を発行して身許を保証するという措置が執られ、南京城内の混乱は終熄に向かっていたのである。
ところが、笠原の『南京事件』は、28年後に出された新版でも、ページが229ページと変わるだけで、上記引用部分の記述は一字一句変わっていない。
しかし、ここに奇妙なことがある。笠原の旧版が発行されてから2年後の1999年に翻訳出版された『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』(岡田良之助他訳、大月書店)の12月25日の箇所には、上記の引用と異なることが次のように書かれているのである。
(B)【クリスマス-ディナーのときにサール・ベイツが、「地獄のクリスマス」と題して記事を書いているところだ、と言った。実際のところ、この金陵女子文理学院ではそのようなことはない。このキャンパスは多少なりとも天国である。】(上記翻訳書、79ページ)
(A)にあった「殺戮、強姦、掠奪、放火」の話はなく、逆に、アンダーラインの部分が(B)には書かれている。その結果、文意はほぼ正反対になっている。仮に、上記二つの引用がどちらも本当にヴォートリンの日記からだとすると、不思議なことに、彼女は同じ日の日記に、一方では身の回りの状況を「地獄」と表現することを受け入れ、他方では「天国」だと書いていたことになる。こんなことが一体あり得るのか。とりわけクリスチャンにとって、天国と地獄は絶対に両立出来ない世界である。なぜ、こんな不可解なことがおこったのか。
●日記の文章を改竄
日記の正文は(B)の記述である。それによれば、ディナーでサール・ベイツは、「地獄のクリスマス」という題で記事を書いていると言った。ベイツは金陵大学の歴史学の教授で、安全区国際委員会の中心人物である。彼は南京を離れる5人の欧米の記者に日本軍の残虐行為なるものを捏造して書いたメモ(ベイツレポート)を渡した。これが世界中を駆け巡った南京事件の第一報すべての元ネタである。このように事件デッチ上げの首謀者ともいえるベイツは、今度は「地獄のクリスマス」という新たな反日捏造記事を書こうとしていたことがわかる。ベイツはこのように、南京の現地で反日宣伝を継続して展開していたのである。
他方、ヴォートリンは、ベイツが「地獄」と言ったので、敢えて反対語の「天国」という言葉を日記で使ったのである。金陵女子文理学院は数千人の避難民を収容しており、ヴォートリンはその支援に奔走してきた。彼女の「天国」という語の使用にはベイツに対する一抹の反発と自分の仕事への自負が感じ取れる。ヴォートリンは日記の中で、引用箇所に続いて、「昨夜も平穏な一夜だった。校門に警備兵25人が配置され、漢口路と寧海路を巡回してくれた」と書いていた。
(A)の記述は(B)の日記の原文とどのように異なっているかを整理すれば次のようになる。
第1に、日記の原文にない「殺戮、強姦、略奪、放火」の話が付け加えられている。
第2に、日記の原文にあるアンダーラインの箇所が削除され、キーワードの「天国」の単語も消失した。以上2つの改変によって、ヴォートリン日記の趣旨はほぼ正反対になった。
第3に、ベイツの名前が「ある宣教師は」と匿名化された。日記の文体として、極めて不自然である。
第4に、ベイツの言動も、日記の正文では、<「地獄のクリスマス」という題で記事を書いていると言った>となっていたのに、<〝地獄の中のクリスマスだ〟と言った>と改竄された。その結果、ベイツの反日工作が隠蔽され、改竄後の一文は、(A)の冒頭に付け加えられたアンダーラインの記述を補強する発言に役割が変換されている。これは文章の技巧として、実に巧妙で高度な、あざとい改竄であると言える。
以上のことから結論を下すなら、(A)はヴォートリンが書いた日記ではなく、日記を読んだ誰かが、日記の文章を改竄してニセの日記に仕立て上げたか、または、日記を利用して日本軍を批判する文書にしたか、のどちらかに違いないのである。私は、文章のトーンから、(B)は実際は「日記」ではなく後者の性格の文書の一部であり、笠原がそれを強引に「日記」に仕立てた可能性があると考える。
●白旗を上げた岩波
かねてから2つの文章の間の齟齬に疑問を抱いていた推理作家の石井竜生は、南京事件研究家の阿羅健一と現代史研究家の茂木弘道との3人の連名で、2025年10月27日、岩波書店に公開質問状を送った。経過の詳細は月刊誌『Hanada』の2026年7月号に掲載されている。
岩波書店は、笠原本の記述の出典はイェール大学が保管する「ヴォートリン文書」であるとしてその英文を示し、「ヴォートリン自らが書いたものです」と回答した。だが、「ヴォートリン文書」はヴォートリン以外の人物が書いたものも含まれる文書である。そこで、質問者側は次の2つの質問を提出した。
①引用した文章が確かにヴォートリンの書いたものであることを証明できるのか。
②笠原氏はクリスマスの南京の状況を書くに当たり、なぜ一級史料である「ヴォートリン日記」を無視して、これと矛盾する素性の怪しげな二級資料を使ったのか。
岩波=笠原側はこれらの質問に、ついに答えることができなくなった。白旗を上げた形である。笠原は自分に都合のよい史料を「我田引水」的に使って読者に対する印象操作をしたのである。国際歴史論戦研究所は2026年5月26日、記者会見を開き岩波新書『南京事件』を絶版にすることを要求し、岩波側に送付した。岩波新書では過去に著作権侵害(盗用)のため絶版・回収措置を取った前例がある。ことの重大性は前例に劣らない。
●「研究者倫理」とは
岩波書店は2025年11月26日付けの第1回回答文書の中で、(A)の文章の出典は、「ヴォートリン『日記』ではなく」、イエール大学が所蔵する「ヴォートリン文書」であると答えた。回答はもちろん、「著者である笠原十九司氏とも確認のうえ」である。そうなると、笠原にはもう一つの問題が持ち上がる。
笠原は1993年に渡米し、イエール大学神学図書館の地下7階に保管されている、タイプで打たれた『日記』などの文書をすべてコピーして帰国した。そして、1997年の新書版よりも先に、1995年、『南京難民区の百日』(岩波書店)を上梓した。その中には、「地獄の中のクリスマス」という小見出しのもとに、次の記述がある。
【「クリスマスがきた。街には、いぜんとして殺戮、強姦、略奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は、”地獄のクリスマスだ”と言った」とヴォートリンの日記にある。】(267ページ)
これは完全な虚偽となる。出典が「ヴォートリン文書」であることは完全に伏されているからである。この段階で、笠原のこの一件に関する弁明は「詰んでいる」のである。
ここには「研究者倫理」の問題が存在する。笠原は「ヴォートリン日記」についても、「ヴォートリン文書」についても、日本人としてヴォートリン研究の第一人者であると自負していたはずである。言い換えれば、日記のほかに日記と紛らわしい別の文書を発見したとして、どちらを引用して「日記」であると触れ込んでもよい立場に置かれていた。自分以外にこのことを知っている者はおらず、誰も気付くはずがないからである。
ここで問われるのが「研究者倫理」である。断っておかなければならないことだが、研究者は心中にどのような思いや仮説をもっていても、それ自体は完全に許される。笠原が、12月25日の南京はまだ「殺戮、強姦、略奪、放火」が日本軍によって行われていたという仮説を心中にもっていたとしても、それ自体は構わない。しかし、それと合致する史料と否定する史料が目の前に2つ存在するとき、どう対処するかは、研究者の心中の期待とは独立に、研究のルール・手続きに従わなければならない。
笠原が真理を追究する真摯な研究者だったとしたら、①2つの史料が存在することへの合理的な解釈を自身で確立するまで何も発言しないか、②2つの矛盾する史料の両方を出し、自己の私見をのべるか、どちらかでなければならない。しかし、笠原がやったことは、自己のイデオロギーや願望(自国の軍隊がなるべく悪逆であって欲しいという願望を持つというのも奇妙な話だが)に合致する方を選んだのである。この瞬間に、真摯な実証史家であるとの仮面は剥がれて、笠原は単なるプロパガンディストであり、岩波新書『南京事件』はプロパガンダ本であったという真実が露呈したのである。
一事が万事ということわざがある。笠原が同じことを他の箇所でも無数におこなっていないという保証はない。笠原著・岩波新書『南京事件』は、読者がただの1ページも鵜呑みにしてはいけない本なのである。
●累犯加重
実は笠原には、今回の文献操作の不正だけでなく、この岩波新書『南京事件』について、同じような事件を引きおこした「前科」がある。これについては、月刊誌『Hanada』の2026年8月号の拙稿をご覧いただきたい。ここでも同じような「研究者倫理」が問われる局面が存在する。
笠原は1984年の夏、アメリカのスタンフォード大学フーバー研究所東アジア文庫に行き、1938年に中国国民政府軍事委員会政治部が発行した写真集『日寇暴行実録』の中の写真をカメラで接写し、そのうちの1枚を(2)の岩波新書初版の「第Ⅲ章 近郊農村で何が起きたか」のトビラに当たる73ページに掲載した。中国の村人の一団と日本兵が橋を渡る場面が写っている写真である。キャプションは次の通り。
【日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊行)所載。】(C)
ところが、この写真は戦前、日本で発行されていた写真週刊誌『アサヒグラフ』(朝日新聞社発行)の1937年11月10日号に載ったもので、タイトルは「硝煙下の日の丸部落」となっており、日本軍が中国の農村に入り、敗残支那兵の襲撃から村人を護る働きをしていたことを朝日新聞記者が取材したものであった。これを指摘したのは、秦郁彦である(月刊誌『諸君!』1998年4月号)。
そもそも、旧敵国政府の諜報・宣伝機関がプロパガンダとして発行したものを、無批判に歴史史料として使うこと自体が根本的な大問題で、本格的に批判されなければならない問題である。だが、いったんそれを横に置くとして、少なくとも笠原はその写真を「真実」だと思い込んだことになろう。だからこそ、自著の章のトビラの写真として使ったのである。ここで、「研究者倫理」の問題が生じるのは、仮に笠原が中国政府の宣伝機関が発行した本の写真が真実を伝えるものだと信じたというなら、そのキャプションをそのまま掲載すべきであった。なにしろ、それは真実なのだから。軍事委員会政治部の発行した写真集に掲載された写真のキャプションは次の通りであった。
【江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、凌辱され、輪姦され、銃殺された。】(D)
笠原は指摘を受けてこの写真の「誤用」を認めた文章を岩波書店『図書』1998年4月号に掲載した。上記の(D)は、その中に載っている笠原自身の訳文である。
ここで生じる重大な疑問は、なぜ笠原はこの文章を忠実に自著に書き写さなかったのかというものである。真実であると思ったのなら、その通りに訳して載せたほうが日本軍の残虐非道の行為を直接伝えることができてなおよかったではないか。笠原は、そうせずに、原文をゆるめた、口当たりのよいキャプションを自分で作文した。
このことから推測できるのは、笠原自身もこの写真が真実でないことがこの時点で分かっていたのかも知れないということである。つまり笠原は、写真が半分デタラメであること(半分デタラメは要するにデタラメだということだが)に感づいておりながら、その嘘がバレないように、「穏やかな」表現に変えて日本の読者に飲み込ませようとしたのではないか。これがまさに「研究者倫理」の問題である。文献と写真の違いはあれ、さきの「ヴォートリン日記」の扱いと同じ性格の問題がここにも横たわっていることが分かるであろう。笠原の誤りは累犯加重というべきで、もはや歴史学者失格である。
●専門家の責務を放棄
私は笠原とは面識もなく、個人的には何の恨みもないが、ある講演会の企画に関連して不可解な思いをしたことがあるので、そのことをここに書いておきたい。1994年、私は南京事件について虐殺があったとする笠原と、無かったとする田中正明の両者を招いて話を聞く講演会を企画した。当時の私はまだ、南京事件についてハッキリした定見を持っているわけではなかったこともあって、両者の見解を直接聞く機会をつくりたかったのである。
ところが、この依頼を笠原はいったん引き受けておきながら、その後断ってきたのである。経過の詳細は拙著『「自虐史観」の病理』(1997年、文藝春秋、のちに文春文庫)に詳しく書いた。笠原側の言い分は『近現代史の真実は何かー藤岡信勝氏の「歴史教育・平和教育」批判』(1996年、大月書店)所収の笠原論文を参照していただきたい。最大のポイントは、この一件を振り返って笠原が述べた次の2つの言明にある。
まず1つ目。「もしも、そのときに虐殺否定派と討論させようとした藤岡氏らの意図を隠さずに説明してくれれば、私は最初から出席を断ったであろう。」
南京事件について多数の著書を発行している笠原は、なぜ、「虐殺否定派」との討論を避けようとするのか。なぜ、そんなに自信がないのか。このような態度は、実は自身の研究が批判に耐えられないものであることを自らよく知っているからではないか、と考えざるを得ない。
2つ目の発言。「1980年代の南京大虐殺論争の経緯を少しでも理解している人ならば、虐殺否定派の田中正明氏がとても学問的論議の出来る人物ではないことくらいわかるはずである。」
私の田中正明の著書の印象は全く異なる。田中の著書『南京事件の総括』(1987年、謙光社、後に小学館文庫)は、非常に説得力のある、明晰な書籍である。田中は松井石根の秘書役だった人物で、軍人として現場にいたのだから、直接体験に基づく細部の知識ではかなうはずがない。
笠原は、田中を「学問的論議の出来る人物ではない」などといって忌避するが、学問的でないなら、田中の議論のどこが間違っているのか、笠原から是非聞きたいのである。そういう無知な大衆を啓蒙することは、専門研究者の社会的責務である。その責務を放棄するという点でも、「研究者倫理」を踏み外しているのではないかと思う。
笠原の南京事件に関する学説については、今後全面的な批判が展開されるだろう。その一端は、すでに阿羅健一の笠原・新版への「書評」として『歴史認識問題研究』第18号(2026年3月)に公表されている。
●秦郁彦の「増補版」
秦郁彦『南京事件』(1986年、中公新書)は、もっとも早い時期に新書版としてまとめられた書物である。書き出しは次のようになっている。
【「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった・・・・」とニューヨークタイムスの若い記者ティルマン・ダーディンは、上海沖の米砲艦オアフ剛の士官室でタイプを叩きはじめた。】
以下、しばらく引用が続き、「彼が目撃した恐怖の光景が、ジャーナリストらしく要領の良い、しかし冷静な筆致で映画フィルムのように生々しく描き出されている」として高く評価し、秦はその報道内容に一片の疑念も抱いていない。
「安全区の外国人たち」という小見出しのもとでは、残留した22人の外国人を、難民区に集まった「中国人難民を世話しよう、と危険を覚悟で残留した篤志家たちだった」と書いている。要するに青い目の西洋人は、すべて善意の、中立で公平な観察者だという前提を素朴に信じて何も疑わない立場で秦の『南京事件』は書かれていることになる。今では、彼らの正体がさまざまに明らかになっているから、秦の本を改めて読むと、隔世の感がする。次の一文は、秦の初版『南京事件』のスタンスを明瞭に宣言している記述である。
【たとえ外国人であっても、南京で目撃したり体験した事実をストレートに外界へ伝えるのは、さまざまな制約や危険があった。しかし所詮は人の口に戸は立てられず、真実は滲み出る水のように広がって行くものである。やがて細切れの断片情報はティンパーリーというオーストラリア人記者の精力的な活動によって集成され、南京アトリーシティの全体像を伝える最初の著作として刊行された。】(9ページ)
しかし、秦のこの本が出た後で、このティンパーリーは、中国名を田伯烈といい、国民党中央宣伝部の「顧問」であったことが、鈴木明の『新「南京大虐殺」のまぼろし』(1999年、飛鳥新社)や北村稔『「南京事件」の探究』(2001年、文春新書)によって明らかになった。2000年10月には「日本『南京』学会」が発足し、「日曜歴史家」を含めて集団的な取り組みが始まった。そうしたなかで、2006年には東中野修道の『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社)という画期的な研究が発表される。東中野は台北の国民党の資料館に眠っていた極秘文書「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」を入手し分析した。それらによって、従来、中立とみなされてきたアメリカ人宣教師などが国民党の役職を兼ねて裏でつながっていた事実などが次々と明るみに出された。中央宣伝部がティンパーリー記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという国際宣伝処長・曽虚白の証言も同人の自伝で明らかになった。
これらの研究の進展を前にして、私は秦が『南京事件』を絶版にして新たな本を書くのだろうと予想していた。ところが、この予想を裏切って、秦は2007年に『南京事件 増補版』を出し、本文は初版をそのままとし、巻末に120ページにわたる増補部分を付け加えて出版したのである。これには驚愕した。新資料が出現し、明らかに自身の学説が古く、正確でないことが判明したら絶版にして新たな本を書くのが、学者としての責任であると私は理解していたからである。
●秦の「研究者倫理」
秦の研究姿勢について、私は2つの疑問を呈したい。
第1は、自身の初版の学説の扱いである。結論部分で秦はこう言っている。
【この20年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下回るであろうことを付言しておきたい。】((3)の317~318ページ)
つまり、「四万」の自説を撤回せず、「最も多くても4万」と自説を解説して見せたのである。開き直って権威主義的に自己を守ることに汲々としており、潔くない。
秦の議論でさらに問題であると思うのは、中国に対する態度である。秦は旧版の「あとがき」で、中国政府の立場について次のように書いていた。
【・・・「南京”大虐殺”はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「30万人」や「40万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数(実数は今でも不明だが)が「多すぎる」とか「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。】(244ページ)
この文章は、増補版にもそのまま残っている。つまり、今も秦はこのような自説に閉じこもっていることを意味する。秦は中国側「犠牲者数」について、自説よりも小さい数字についてのコメントで、「それで中国政府が納得するだろうか」と述べたことがある。一体、秦は真理を追究する学問をしているのか、それとも中国政府が納得する結論を見つけ出すのが研究の目的なのか、わけがわからない。秦にとっては、自国の旧日本軍将兵の不当に侵害された名誉を守るよりも、中国政府の面子のほうが大切らしい。慰安婦問題では大きな功績がある秦が、こと中国に関わると、このように無茶苦茶な言辞を弄するのは不可思議としか言いようがない。個人的にはよくして下さり深く感謝しているものの、やはり、笠原と同様に、南京事件に関しては「研究者倫理」を秦に対しても問わざるを得ない。
